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初期ワークフェア構想の帰結
―就労要請の強化による福祉の縮小―

小林 勇人 2006
『コア・エシックス』2: 103-14


[目次]

■1 はじめに

■2 1960年代AFDCのリベラルな拡張――ニクソンによる福祉改革の背景

 2−1 貧困の「再発見」とAFDC制度
 2−2 AFDC制度の拡張
 2−3 1960年代のAFDC制度が抱えていた問題点と争点

■3 ニクソン政権によるFAPの提起と挫折

 3−1 FAPの概要
 3−2 FAPの審議過程の概要
 3−3 FAPの1度目の否決――就労インセンティブ効果への疑義
 3−4 FAPの修正―受給者の就労能力の有無による区分
 3−5 FAPの2度目の否決――就労要請の強化

■4 結論――ワークフェア政策の評価に向けて

[注]

[文献]

[正誤表]

[言及・紹介]

[English]

[要旨] → [Abstract]を参照

[キーワード] ワークフェア、公的扶助、シングル・マザー、就労要請、ニクソン



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■1. はじめに

 近年日本国内において、シングルマザーやホームレス、生活保護受給者や障がい者、そしてフリーターやニートと呼ばれる若年者層などに対して、「就労を通した自立」を「支援」する政策が実施されている。その理由として、アメリカやイギリスで展開されているワークフェアと呼ばれる政策の影響を挙げることができる(★1)。

 「ワークフェア(workfare)」とは「work-for-welfare」の合成語であり、就労可能な公的扶助受給者の受給要件に就労を課す政策として、アメリカで1970年代から実施され始めた。ワークフェアという語が社会的インパクトを持つようになったのは、1969年8月にニクソン大統領のTV演説で使用されてからである。その演説で抜本的な福祉改革案がワークフェアとして発表された。アメリカで福祉といえば、一般的に公的扶助の一範疇である「要扶養児童家族扶助(Aid to Families with Dependent Children : AFDC)」制度を指し、ワークフェアとはAFDC制度の改革に他ならなかった。

 AFDCは、扶養が必要な児童のいる家族を対象とし、受給要件に一定の資産制限や所得制限を持つ現金扶助であった。またAFDCは連邦と州の共同管理であり費用は分担して負担されたが、プログラムの運営については州の独自裁量が強く、給付金の水準や資格要件などは州間で大きく異なった。AFDCの受給資格を得た者には自動的に食料扶助(フードスタンプ)や医療扶助(メディケイド)の資格も与えられた。そのため医療保険が皆保険でないアメリカでは、貧困層にとってAFDCの受給資格は重要な意味を持っていた。

 1960年代後半からの受給者数の激増によりプログラムを実施する州の財政が逼迫していたことと、受給者の中でも未婚・離婚のシングルマザーの増加に伴って伝統的な家族が崩壊することなどが問題とされ、AFDCは長年アメリカにおける福祉改革の主題であった。そのためAFDCは幾度かの改革を経ることになったが、1996年に制定された福祉改革法「個人責任と就労機会調停法(Personal Responsibility and Work Opportunity Reconciliation Act :PRWORA)」によって廃止された。

 1960年代のAFDC改革は、就労可能な受給者に対する職業訓練・教育プログラムなどの積極的な就労支援によって、受給者を職に就かせ自立させることで福祉ひいては貧困から離脱させることが目標であった。だがそのプログラムは受給者の就労には成功せず、次第に就労可能な受給者に就労を要請する政策が実施され始めることになった。

 AFDCの背景には人種・性差別と複雑に関連する失業・貧困問題があり、その大半が非白人シングルマザーである受給者が職に就くことは困難であった。にもかかわらず、なぜAFDC受給者に受給要件として就労要請が課されねばならなくなったのであろうか。

 本論文は、初期のワークフェア構想であるニクソンの福祉改革案とAFDC制度の変遷を分析することで、AFDC受給者に対する就労要請がなぜそしてどのように課されるようになったのかを指摘し、ワークフェアが福祉を縮小させる効果を持っていたことを明らかにする。2章でAFDC制度の抱えていた問題を整理することでニクソンによる福祉改革の背景を確認し、3章ではニクソンの福祉改革案とその審議過程を分析する。それらを通して4章で初期ワークフェア構想がもたらした帰結を論じる。


■2. 1960年代AFDCのリベラルな拡張――ニクソンによる福祉改革の背景


 結局のところ、我々は貧困から脱却する手段を論じることはできない。つまり、我々は貧困から脱却する手段を法で制定することはできないのだ。しかし、この国は貧困からの脱却にむけて徐々に進むことはできる。アメリカが今必要とするのは、これ以上の福祉ではない。さらに「ワークフェア」を強化することが必要なのだ。(The Washington Post, August 9, 1969: 1)


 これは前述したニクソンのTV演説(1969年8月8日)の内容を伝えた翌日の新聞からの引用である。このように第1面でニクソンの提起した大幅な福祉改革案を特徴付けるものとしてワークフェアが紹介されるとともに、他面では演説の全原稿が掲載された。全米に大論争を巻き起こしたこの福祉改革案では、既存のAFDC制度の問題点が指摘され、それに代わって平等な処遇、就労要請、就労インセンティブを三原則とする新しい家族支援制度が提案された。本章では、1960年代のAFDC制度が抱えていた問題点と争点を整理し、ニクソン政権が大幅な福祉改革に取り組まなければならなかった背景を確認する。

■2−1.貧困の「再発見」とAFDC制度

 1960年代のアメリカでは戦後の経済的繁栄のもとで、大多数の者が「豊かな社会」から恩恵を得ていた。だがそこには、働く能力がない者、また人種差別や性差別によって就労の機会を失っている者にとって、マイケル・ハリントンをして「もう一つのアメリカ」と言わしめる貧困が存在した(Harrington 1962=1965)。農業の近代化により職を失った黒人の中で農村から都市または南部から北部へ移住する者が増加し、「貧困」が人々の目につくようになる一方で、公民権運動の隆盛を主要因として不可視化されていた貧困が「再発見」されたのであった。

 アメリカの社会保障制度はニューディール期に創られたが、その仕組みは基本的に、就労可能な者は働いて社会保険を利用し、就労不可能な者は公的扶助を利用するというものであった。ケネディとそれに続くジョンソン政権期の「偉大な社会」と呼ばれた時期のリベラルな施策は、ニューディールとよく比較され共通点も多くニューディール期に積み残された課題への取り組みが行われた。しかし、大恐慌下でのニューディールでは、対応すべき制度の準備がほとんど無かったため、大量失業問題が焦点であったのに対し、この時期は経済的繁栄により若年者や黒人などの層に失業問題は周辺化されていた。またニューディールは黒人政策を持たなかったが、黒人問題への取り組みが求められたこの時期に黒人政策は社会保障制度によって担われることになった(馬場1985:122-8)。

 他方で貧困の再発見を通して、就労していながらも貧困であるワーキング・プアと呼ばれる家族の存在が明らかになってきたが(★2)、そのような家族は社会保険でも公的扶助でも想定されていなかったため制度的対応はなかった。

■2−2.AFDC制度の拡張

 AFDCは、1935年の社会保障法成立時に制定された「要扶養児童扶助(Aid to Dependent Children:ADC)」を母体とする。ADCは、親の死亡、家庭における継続的な不在、身体的・精神的障がいの理由によって、親による扶養や世話を剥奪されている16歳未満の児童に対して行われた現金給付であった。そこで想定されていたのは、主に夫と死別した白人の寡婦が家庭で児童を養育できるようにすることであり、父親のいる家庭や非白人の家庭の受給は制限されていた。だがADCは幾度かの改正により給付対象を拡大させ、非白人の家庭や失業中の父親がいる家庭など、就労可能な者も含むようになっていった(★3)。

 当初ADCは児童のみが給付対象だったが、1950年の改正では児童に加えて、被扶養児童と同居する母親や親族も給付対象とされた。また1961年に行われた改正によって、失業率上昇への一時的措置として「要扶養児童失業扶助(Aid to Dependent Children-Unemployment Parent:ADC-UP)」が設立され、親の失業のために困窮に陥っている児童を援助することも可能になった。

 ADC-UPは「『失業者』という潜在的労働能力のある家庭への要扶養児童扶助給付を制度上はじめて認めたものであり、同扶助による救済を受けさせるために妻子を遺棄する(家庭に男性がいる場合受給資格を得られないため)のを防ぐという意味合い」(菊池1998:254)を持っていた。すなわち、真に扶助を必要とする者の要件として、労働能力の欠如に加えて失業が考慮されると同時に、増加しつつあった家庭崩壊に歯止めをかけ家庭を維持させようとする施策であった。しかし、ADC-UPプログラムの採択や「失業」の定義は、州の裁量に任せられており、ADCUPは南部の州では機能していなかった(★4)。

 このような給付対象の拡大により、ADCは児童への給付というよりも家族への給付という性格を強めたため、1962年の改正では、「要扶養児童家族扶助(Aid to Families with Dependent Children : AFDC)」に名称が変更された。また一時的措置であったADC-UPが5年間延長されて、「要扶養児童家族失業扶助(Aid to Families with Dependent Children-Unemployment Parent: AFDC-UP)」に変更された。

 さらに1967年の改正によって、親の失業のために困窮に陥っている児童への援助が恒久化され、公的扶助の給付対象として就労可能な者を含む家族が認められるようになった。だがAFDC-UPの給付対象となる父親は、失業以前に就労しており、失業中も州の雇用局に登録して提供される雇用や雇用訓練を適切な理由なしには断らない比較的勤勉な者に限られており、「怠惰な父親」は除外されていた(★5)。

 この改正によって公的扶助に就労可能な者が含まれるようになる一方で、AFDCプログラムに就労要請や就労インセンティブが組み込まれるようになった。各州はAFDC受給家族を対象に「就労促進プログラム(Work Incentive Program : WIN)」を実施し、失業中の父親や17歳以上の子、州の判断で就労可能とみなされる受給者は、原則として就労および職業訓練の登録を義務付けられるという就労要請が課された。だが学齢期の児童を持つ母親は就労要請を免除されていた(Halpern 1999: 158-9)。また「30ドルと1/3ルール」と呼ばれる施策によって、AFDC受給者の稼働所得は給付額算定の際に月額30ドルとそれを超える額の1/3が認定所得から控除されるため受給者の就労インセンティブの向上が望まれた(★6)。

■2−3. 1960年代のAFDC制度が抱えていた問題点と争点

 1960年代にAFDC制度が拡張されたのは、公民権運動とそこから派生した福祉権運動の進展などにより(★7)、連邦政府が黒人の失業・貧困問題に取り組まなければならなかったからである。ケネディ政権ではAFDC政策において、積極的な教育・就労訓練プログラムを通して就労させることにより受給者の福祉からの脱却を目指す「サービス戦略」と呼ばれる施策が実施された。受給対象を拡大し受給要件を緩和するなどして、AFDCの「入口」が拡張されると同時に、積極的な教育・就労訓練プログラムによって労働市場へ向けての「出口」も設けられたのだった。

 またケネディの意志を継ぎ「貧困戦争」に挑んだジョンソン政権でも「サービス戦略」は推し進められたが、受給者の就労は思わしくなく受給者は激増することになった。すなわちAFDCの「入口」が拡張される一方で、積極的な教育・就労訓練プログラムは「出口」として機能しなかったといえる。そのため1967年の改正ではAFDCに就労インセンティブ(「30ドルと1/3ルール」)と就労要請(WINプログラム)を導入することによって、受給者個人の就労努力を高めることが意図された。しかし、1967年の改正後も受給者は激増したため、この受給者個人の就労努力への注目はニクソン政権のもとで高まることになった。

 「貧困戦争」プログラムの限界を認識したジョンソン政権は、教育・訓練の強調から所得保障の重視へと基本戦略を修正していた(★8)。「サービス戦略」から所得保障への転換が行われつつあったにもかかわらず、受給者個人の就労努力を高める政策が実施されたのであった。そのため就労を通しての「自立」が実際に目指されるのは一部の層となり、扶助が必要な者に対して所得保障を行うことでどのように受給者数を削減するかが課題になりつつあった(★9)。

 他方でワーキング・プアの存在は、AFDC受給者数の増加とあいまってAFDC制度に対して二つの問いを生じさせた。一つ目は、AFDCが離婚・未婚のシングルマザーの増加を促し家族を崩壊させているのではないか、というものである。制度的対応のないワーキング・プアのなかには、低賃金の稼働所得よりも公的扶助による所得のほうが高い場合、家庭から父親が去りAFDCの受給資格を得ることで貧困に対処せざるをえない者が現れていた。なぜなら、当初AFDCは、寡婦が家庭で児童を扶養できるようにするために児童に対して現金給付を行うという意図から設立され、父親がいる家庭あるいは就労する父親がいる家庭はAFDCを受給できなかったからである。そのため家族の崩壊がもたらす離婚・未婚のシングルマザーの増加は、AFDC受給者数の増加の帰結ではないかと考えられた。

 二つ目は、就労可能でありながらも就労せず福祉に依存する者よりも、就労しながらも貧困であるワーキング・プアのほうが扶助に値するのではないか、というものである。これは、母親も就労能力がある者とみなされるようになってきていたことと、AFDCの対象が拡大されて失業している父親がいる家族も受給できるようになる一方で、ワーキング・プアに対してAFDCは適用されていなかったためである。すなわち就労可能でありながらも就労しない福祉受給者(主にシングルマザー)、就労する福祉受給者(シングルマザーと失業中の父親)、福祉を受給できないワーキング・プア(フルタイムで働く男性が世帯主)の間での不平等な処遇が非難されたのであった。これと関わって、受給者が就労可能であるにもかかわらず就労しないのは、受給者の稼働所得への控除が低いためAFDCが受給者に就労ディスインセンティブ効果を持つからであり、AFDCは就労可能な受給者の勤労倫理を損なっていると考えられた。

 貧困・失業問題を背景として1960年代のAFDC制度は、勤労倫理の崩壊と家族の崩壊をもたらすという二つの点で問題を抱えているとされ、受給者数の増加を抑制することが課題となっていた。そして家族の崩壊を防ぐこととも関わってワーキング・プアへの扶助を行うかどうかが一つの争点となっていた。しかし、家族の崩壊を防ぐためにワーキング・プアをもAFDCの対象にするとさらにAFDC受給者数を増加させるばかりか、既に就労している者に扶助を与えることになるので勤労倫理を破壊させてしまう。かといって家族の崩壊に対処しなければ、離婚・未婚のシングルマザーの増加によりさらにAFDC受給者数を増加させてしまう。すなわち家族の崩壊と勤労倫理の崩壊を防ぎワーキング・プアをも対象としながらも、受給者数の増加を抑制するような公的扶助が、ニクソン政権の福祉改革案には望まれていたのだった。


■3. ニクソン政権によるFAPの提起と挫折

 ニクソンが提起した福祉改革案は、ワーキング・プアをも含めた就労可能な者への公的扶助であったため様々な議論を引きおこした。その議論のなかでも、福祉改革案における就労可能な者への就労要請を強化するという構想は、議会の多数派であったリベラル派から批判されたにもかかわらず、審議過程のなかで実現されることになった。本章では福祉改革案の審議過程を就労可能な者への就労要請の強化という観点から分析する(★10)。

■3−1.FAPの概要

 アメリカの公的扶助における現金扶助は、AFDCの他に成人カテゴリーと呼ばれる、「老齢者扶助(Old- Age Assistance)」・「視覚障がい者扶助(Aid to the Blind)」・「全・永久的障がい者扶助(Aid to the Permanently and Totally Disabled)」があった。ニクソンの提起した福祉改革案は、主にAFDCを廃止して新しい家族支援プログラムに置き換えようとするものであり、「家族支援計画(Family Assistance Plan: FAP)」と呼ばれた(★11)。福祉改革案の中心であった家族支援プログラムを以下に示す(Congressional Quarterly, 1970: 836-7)。

 @受給資格:所得が一定基準(4人家族で3920ドル)以下である児童のいる全家族に受給資格がある。これにより2種類の家族、女性あるいは失業中の父親が世帯主である「要扶養家族」と、稼働所得が3920ドル以下の就労している男性が世帯主である「ワーキング・プア」の家族が扶助の対象となる。受給要件として、失業中の父親と学齢期の児童のいる母親は、就労訓練や雇用を受け入れるよう要請される。

 A給付水準:(1)稼働所得のない家族は、〔4人家族で〕年間1600ドル―すなわち、最初の家族構成員2人〔のそれぞれ〕に対して500ドル、家族構成員が1人増える毎に300ドルの連邦政府の給付が行なわれる。これに加えて州の補足給付が行われる。(2)稼働所得のある家族に対する年間1600ドルの連邦政府の給付は、給付額計算の際に年間稼働所得の最初の720ドルとそれを超える額の50%が控除されて削減される。

 B連邦と州の費用分担:4人家族に対して1600ドルを連邦が負担する。州は連邦の1600ドルと州の現在の給付水準との差額の補足給付を行わなければならない。ただし州は現在の総費用の50%以下の負担ですますことはできないし、現在の給付水準の90%以上の負担は要請されない。

 C就労訓練:家族支援プログラムのなかで就労可能な受給者(肉体的に健康な失業中の父親と学齢期の児童のいる母親)は、就労訓練と雇用を受け入れるよう要請される。受け入れない場合は、家族給付金の一部を失う。また、全米で15万件の訓練の機会が福祉を受給する母親に新たに提供される。福祉を受給し訓練や就労を求める母親が世帯主の家族には、45万世帯のチャイルドケアのサービスが新たに提供される。訓練を受ける者には月30ドルの給付金を与える。

 @の受給資格は、扶養が必要な児童のいる家族への扶助の対象として、母子家族や失業している父親に加えてワーキング・プアをも組み込むものであった。また受給要件として、後述する就労訓練プログラムを義務付けていた。

 Aの給付水準は、稼働所得のない家族のうち、親には年間500ドル、児童には300ドル支払うというものであった。それまでAFDCの全米平均給付月額は、家族単位では171.35ドル(受給者単位で42.90ドル)であったが、州によって給付水準は大きく異なっていた。家族単位での平均給付月額は、ニュージャージー州の263ドル(受給者単位で65.30ドル)が最高で、ミシシッピー州の38.75ドル(受給者単位で9.70ドル)が最低であった。これに対して家族支援プログラムは、稼働所得のない家族に全米一律の最低基準として4人家族で年1600ドルを連邦が給付するものであり、州間格差を是正しようというものであった。

 他方で稼働所得のある家族の給付額の削減を行う場合には控除が行なわれた。例えば年2000ドルの稼働所得がある4人家族では、まず2000ドルから720ドルが控除され(1280ドル)、さらにその50%が控除された額(640ドル)が、給付額(1600ドル)から削減されて給付されるため、稼働所得と給付金(960ドル)を合わせて2960ドルとなった。このように給付額の計算の際に稼働所得への控除を行うことで就労インセンティブを設けることで、受給者の就労努力を高めることが意図された。

 Bの連邦と州の経費分担は、4人家族で1600ドルの最低水準までは連邦政府が100%分担して支給するというものであった。また既存のAFDC給付水準がFAPよりも高い州は、その給付水準を維持する義務が課せられ、それに対して連邦から助成が行われた。補足給付における連邦政府と州政府の負担の分担割合は「50-90ルール」と呼ばれる規定によって決められ、州政府の負担はFAPの導入以前に負担していた費用の50%から90%の範囲ですんだ。すなわち州政府はFAPの導入によりAFDCの費用を10%から50%節約することができたが、どれくらいの費用節約が行えるかは州政府がどれくらい補足給付を行わなければならないかに依存した(Bowler 1974: 27)。このためFAPには従前のAFDCの給付水準が高い州ほど連邦政府の助成割合が低下し州政府の負担割合が増加する仕組みがあった。

 Cの就労訓練は、就労可能な受給者である失業中の父親と学齢期の児童のいる母親に対して、受給要件として就労訓練プログラムや就労を要請するものであり、母子家族の母親の就労を促進するためにチャイルドケアの拡充が提案された。

 このように家族支援プログラムは、公的扶助にワーキング・プアへの扶助を組み込むことで、女性がAFDCを受給するために離婚・未婚を選択する結果生じると考えられた家族の崩壊(★12)を防ごうとするものであった。それと同時に就労可能な者への扶助に就労インセンティブと就労要請を組み込み受給者の就労努力を高めることで、受給者を職に就かせ福祉から脱却させAFDC受給者数の増加に対処しようとするものであった。

 ニクソンの福祉改革案には、ワーキング・プアに就労を保持させるために彼女らに福祉を提供し、ウェルフェア・プア(扶助を受給している貧困層)を福祉から離脱させるために彼らに就労努力を行わせるという二重の戦略があった(Rein 1974: 102-3)。これらの仕組みを通して、人々は最終的には「就労のみ」の範疇に包摂されるだろう、あるいは少なくとも「福祉のみ」のグループは減少するであろうと期待されたのであった。

■3−2.FAPの審議過程の概要

 FAPはニクソンによって提起された後に、成人カテゴリーへの給付額を引き上げるなど若干の修正を加えられ歳入委員会の共和党の幹部議員によって法案(HR14173)として具体化され(★13)、1969年10月から下院議会で審議された(Congressional Quarterly, 1970: 833-40)。FAPは歳入委員会による公聴会を経て(★14)、さらに軽度の修正が行われ、1970年4月に法案(HR16311)として下院議会により243対155で可決された。上院議会では、上院財政委員会において「FAPの給付水準は低すぎ、その就労要請が厳格すぎる」とするリベラル派と「費用が高すぎる」とする保守派の反対によって1970年11月に同委員会により10対6で否決されるなどして、FAPは上院議会を通過することはできなかった。

 ニクソンはFAPの立法化を1971年の法制定の主目標に掲げ、FAPは再び同年1月から下院議会で審議された(Congressional Quarterly 1972a: 519-26)。1971年5月にはFAPは歳入委員会によって大幅な修正が加えられ、HR1と呼ばれる「福祉―社会保障法案(welfare-Social Security bill)」として社会保障法改正案とともに審議された。HR1は同年6月に288対132で可決され下院議会を通過した。上院議会では、同年7月から上院財政委員会によって公聴会が行われたが、別の税法案への公聴会の開催が優先されたため、8月にいったん中断され1972年に持ち越された。また健康・教育・福祉省の前長官であり上院財政委員会の委員のなかで最もリベラル派であったリビコフ(A. Ribicoff)から、1971年10月に対案(リビコフ案)が提案される一方で、同年12月にはWINプログラムの就労要請を強化するタルマッジ改正が成立した。

 1972年1月から上院財政委員会はHR1についての公聴会を再開し、同年4月にFAPを10対4で否決した(Congressional Quarterly 1972b: 899-914)。同年9月に同委員会委員長であり委員のなかで最も保守派であったロング(R B. Long)を中心に、FAPを代案(ロング案)に変更するかたちでHR1の修正版が提案された。上院議会では、下院を通過したHR1、リビコフ案、ロング案の間で議論に決着は着かず、それら3案を試験的に2年から4年かけて実施する案が同年10月に承認された。HR1の審議は両院議会に移されたが、両院にとって相互の案は受け入れがたく、HR1からFAPを削除することで合意が得られた。最終的に同月17日にHR1はFAPが削除されることで上院議会と下院議会を通過した。これによりニクソンの提起から約3年2ヶ月を経てFAPは否決されるに至った。

■3−3.FAPの1度目の否決――就労インセンティブ効果への疑義

 FAPが1970年11月に上院財政委員会によって否決されたのは、保守派から費用が高すぎることが論じられる一方で、リベラル派から給付水準が低すぎ就労要請が厳格すぎると批判されたためである(Congressional Quarterly 1971: 1030, 1034-41)。

 同委員会の採決に先立つ同年4月の上院議会の公聴会でFAPは、ウィリアムズ(J J. Williams)から「ノッチ」問題を指摘された(Burke 1974: 154-8)。図1はノッチ問題を説明するものであるが(★15)、直線の傾きの大きさは稼働所得に応じて総所得の増加する割合の大きさを示し、就労インセンティブは傾きの大きさに比例する。ノッチ問題とは、受給者が就労してある所得水準に達すると、現金もしくは現物給付(食料扶助、医療扶助や公営住宅の家賃扶助)の受給資格を失うことによって、現金・現物給付込みの総所得が急激に低下することである。

 例えばFAPでは、ニューヨーク市で3人の児童を扶養する稼働所得のない母親への現金・現物給付による総所得は7615ドルであった。仮に彼女が5000ドル稼働所得を得ると総所得は9275ドルとなるが、稼働所得が6650ドルであれば総所得は7743ドルになった。稼働所得がある水準を超えると公的扶助の受給資格を失いその結果総所得が減額するのであれば、受給者にとってある水準以上は就労しないようにインセンティブが働く。FAPはノッチ問題によって比較的高水準の稼働所得を得る受給者に対する就労ディスインセンティブ効果を問題とされたのだった。


 図1 「ノッチ」問題(出典 Moynihan 1973: 506) [省略]


 ニクソン政権はノッチ問題を解決するために稼働所得の増加に応じて徐々に減額するように現物給付を改正するようにFAPを修正した(★16)。しかし図1に示したように、修正後のFAPは修正前のFAPよりも傾きが小さくなり、比較的低水準の稼働所得を得る受給者に対する就労インセンティブ効果は低下してしまった。

 他方で修正前のFAPは、既存のAFDCの給付水準がFAPよりも高い州にその給付水準を維持する義務を課し、AFDCの給付水準が州の定めた必要規準に満たない場合は、必要基準に達するまでその差額を受給者の稼働所得で埋め合わせることを認めていた。受給者の稼働所得は州のプログラムのもとでAFDCの給付額の削減をもたらさなかったが、FAPでは給付額の削減をもたらすため、州がFAPの削減額を補足給付しなければならいことが判明した。すなわちFAPのもとでは受給者の稼働所得の増加に応じて州の補足給付の負担が増加したのであった(Burke 1974: 159-60)。そこで修正後のFAPでは、給付額が必要基準に満たない場合でも受給者の稼働所得に応じて給付額を削減し、州の補足給付の負担が緩和された。けれどもこれはAFDCの給付水準がFAPよりも高い州において、受給者の就労インセンティブを低下させるものであった。

 同年7月に再開された上院議会の公聴会で、財政委員会の委員長であるロングは、ミシシッピー州では総人口の35%が福祉受給者になるなどFAPによって大幅に受給者が増加し、連邦政府が負担する費用は計91億ドルとなり既存の制度のもとでの連邦負担費用よりも40億ドル以上負担が増加することに懸念を示した。またAFDCの給付額が州の定めた必要基準に基づいて決定されていた22の州では、給付額が必要基準に満たない場合でも受給者の稼働所得に応じて給付額が削減されることなどを指摘した(Congressional Quarterly 1971: 1035)。

 FAPはワーキング・プアをも扶助の対象とし受給者と費用を増加させる案であったため、就労可能な受給者に対する就労ディスインセンティブ効果が問題とされ、1970年の上院議会では否決された。この結果FAPの翌年からの審議では、就労可能な受給者の就労努力に関して、受給者に対する就労インセンティブが疑問視されるなかで就労要請が注目されるようになった。

■3−4.FAPの修正――受給者の就労能力の有無による区分

 FAPは1970年に否決された後、1971年の下院議会の審議で歳入委員会によって大幅な修正を加えられ、HR1と呼ばれる「福祉―社会保障法案(welfare-Social Security bill)」として再び審議された。HR1は主に公的扶助制度についてのものであったが、現行の成人カテゴリーの各扶助については連邦プログラムに一元化し(★17)、AFDCについては廃止して児童を扶養する家族に対して新たに二つのプログラムを設置した(Congressional Quarterly, 1972a: 519-22)。以下それぞれについて受給資格、給付水準、連邦と州の負担割合、就労要件の順にみていく。

 AFDCに代わって設置されたプログラムは、3歳未満(1974年までは6歳未満)の児童を扶養する母子家族を主な対象とする現金扶助であるFAP (ニクソン政権が1969年に提案したものと区別するために以下ではFAPUとする)と、就労可能な成人(ワーキング・プアも含む)のいる家族を対象とし就労要件を特徴とする「家族への就労機会提供プログラム(Opportunities for Families Program: OFP)」であった。

 FAPUの年間給付額は、稼働所得がない場合、家族の最初の2人に対してそれぞれ年間800ドル、次の3人はそれぞれ400ドル、次の2人は300ドル、それ以降は200ドルであった。稼働所得がない場合の4人家族の年間給付額は2400ドルになるが、それはHR1のもとでFAPUはフードスタンプとの併給を禁止されたためであった。OFPの給付額はFAPUと同水準であったが、稼働所得の最初の720ドルとそれを越えた1/3(約33.3%)が控除された。

 FAPではAFDCの給付水準がFAPよりも高い州はその給付水準を維持するよう補足給付が義務付けられていたのに対して、HR1では義務付けられなかった。補足給付を行う州に対しては、HR1によって各州の福祉(AFDCとフードスタンプ)費用が1971年のその水準を超過する部分に限って連邦政府が全額補助金を交付した。したがってAFDCの給付水準がFAPUよりも低い22の州にとって州政府の福祉負担がなくなるのに対して、残りの州は補足給付を削減することで福祉費用を削減することができた。またAFDCの給付水準がFAPUよりも高い州は、補足給付を行うとしても1971年の福祉費用以上に増加することはなかった。このため連邦政府と州政府の福祉負担の分担割合に関してHR1は、AFDCの給付水準がFAPUよりも高い州に比べて低い州を優遇する仕組みであった。

 FAPUの対象者は就労不可能なカテゴリーとみなされたため就労要件は免除されたが、OFPの対象者は就労可能なカテゴリーとみなされたため就労要件が義務付けられた。そのためFAPUの運営は健康・教育・福祉省であったのに対し、OFPは労働省が運営した。AFDCのもとでは誰に対して就労要請を行うかは各州の裁量であったが、OFPでは労働省により就労要請が課され、就労や就労訓練を拒む受給者は年間800ドルの減額が行われる一方で、就労訓練を行う受給者には月額30ドルの追加給付が行われた。さらに一定期間職業教育・訓練を受けても職に就けない受給者は、連邦政府が雇用主となる職に就くよう義務付けられ、20万人の職を提供するために8億ドルの予算が承認された。すなわちFAPはHR1のもとでのFAPU−OFPへと修正されることで、受給者を就労能力の有無によって厳格に区分し、就労能力のある受給者に対して就労要請を強化するものへと変化した。

■3−5.FAPの2度目の否決――就労要請の強化

 次にFAPとHR1のもとでのFAPU−OFPの違いをみていく。両者の給付水準は、FAPでは稼働所得がない4人家族の給付額とフードスタンプを併給すると両者を合わせると2320ドルだったので、FAPとFAPU−OFPの給付額ほぼ同水準であった。またFAPでは受給者の最初の720ドルを超える稼働所得に対する控除の割合も、稼働所得に対するフードスタンプの給付額の削減の際に控除される割合を考慮すると35%だったので、FAPU−OFPの割合(約33.3%)にほぼ一致した(根岸2004:205、Burke 1974:168-9)。またFAPとFAPU−OFPは連邦政府と州政府の福祉負担の分担割合に関しても、既存のAFDCの水準よりも給付額が高い州に比べて低い州を優遇する仕組みである点では共通していた。

 FAPとFAPU−OFPの決定的な違いは、受給資格と就労要件にあった。すなわちFAPU−OFPは扶助の対象を就労可能かどうかで区分し、就労可能な者にはFAPよりも上述したような厳格な就労要請を要件として課したことであった。扶助の対象を就労能力の有無で区分するにあたって、ワーキング・プアに加えて3歳以上(1974年までは6歳以上)の児童を持つ母親さえも就労可能とみなされようになったのだった。

 1971年6月に下院議会を通過したHR1の審議は上院議会に移り、同年7月から上院財政委員会の公聴会が開始された。そこでは健康・教育・福祉省と労働省の長官それぞれによって、HR1は就労可能であるかどうかで受給者を区分し就労可能な者への就労インセンティブと就労要請を強化する点が強調された。なかでも労働省の長官ハドソン(J D. Hodgson)は、WINプログラムが抱えていた問題を指摘し、HR1はWINを「ワークフェア」に置き換えるように構想されたと説明した(Congressional Quarterly, 1972a: 526)。上院財政委員会の公聴会は中断され翌年に持ち越されたが、1971年にはAFDCの重要な改正が行われた。

 1971年半ばには州や地方政府による「福祉の切り下げ」と「福祉の引締め」政策の結果AFDC登録件数が減少傾向を見せたこともあって、多くの上院議員は既存のAFDCを廃止する抜本的な福祉改革よりもAFDCの就労要件を強化することに注意を向けた(Bowler 1974: 148-9)。このようななかで上院財政委員会の委員であったタルマッジによって提案されたWINプログラムの改正案は、上院議会で1人の議員からも反対されることなく1971年12月に立法化された(Burke 197: 164-5)。AFDC受給者の職業訓練登録の実施やその基準は、従来各州の裁量に委ねられていたが、タルマッジ改正によって6歳未満の幼児を持つ母親などを除いて義務化され、登録者の最低15%を職に就かせない州は連邦補助金を打ち切られることとなった(Congressional Quarterly, 1972a: 865)。

 HR1の上院議会による審議は1972年に再開されるが、多くの上院議員にとってHR1におけるFAPU−OFPを導入する必要性は低下していた(Bowler 1974: 148-52)。HR1は下院ではワーキング・プアの所得水準を引き上げるものとして期待され可決されたのであったが、1972年半ばにはワーキング・プアもフードスタンプを利用することが可能になっていた。そのためワーキング・プアの所得水準は、フードスタンプとの併給を認めないHR1のもとでは44の州で悪化することが明らかになった。さらにニクソンが提起した州と連邦の税負担の割合を改革するレベニュー・シェアリング法案が1972年6月に下院を通過したが、同法案のもとでAFDCを運営したほうが州・地方政府にとって費用が低く済むようになった。これらに加えてタルマッジ改正における就労要件はOFPの就労要件とほぼ同じ内容であったため、上院議員にとって既存のAFDCを抜本的に改革し他の制度に変更する動機は失われてしまった。

 最終的にFAPU−OFPが削除されるかたちでHR1は成立し、公的扶助に関して重要な事項としては、現行の成人カテゴリーの各扶助を連邦プログラムに一元化する「補足的保障所得(Social Security Income: SSI)」が制定されることになった。FAPが否決されSSIが成立した結果、公的扶助のなかでAFDC以外の成人カテゴリーと呼ばれる盲人・老齢者・障がい者は、「扶助に値する」者とみなされAFDC対象者と比べて相対的に有利に扱われることになった。そのためHR1はAFDC受給者を「扶助に値しない」者とみなしAFDC受給者に対して労働倫理を強化する法となった(Trattner 1999: 348-9)。すなわちFAPの審議過程において、公的扶助受給者の就労能力の有無による区分が徹底され、就労能力のある者に対して扶助を行う場合は、タルマッジ改正にみられるように就労要請が強化されるようになったのであった。


■4. 結論

 1960年代後半のアメリカでは貧困・失業問題を背景としてAFDCの受給者数は激増し、AFDCのプログラムを実施する州・地方政府にとってAFDCの費用負担の増加が問題となっていた。またAFDCは勤労倫理の崩壊と家族の崩壊をもたらすという二つの点で問題を抱えており、受給者数の増加を抑制することが課題とされた。このようななかでニクソンの提起したFAPは、ワーキング・プアをも扶助の対象とすることで家族の崩壊を防ごうとするものであった。だがそれによって就労可能な受給者が増加すると同時に既に就労している者が就労するのをやめて福祉に依存することが懸念された。そのためFAPでは就労可能な受給者に対して就労インセンティブと就労要請を強化することで勤労倫理を保持しようとすることが意図された。

 しかしFAPが審議される過程で受給者に対する就労インセンティブが疑問視されたため、受給者への就労要請が注目されるようになった。そのためFAPは一度目の否決の後で、就労要請を強化するなどの点で大幅に修正されて審議され、就労可能な受給者への就労要請の強化はタルマッジ改正によって既存のAFDCを改革することで実現された。すなわち、WINプログラムでは学齢期の児童を持つ母親は就労要請を免除されていたが、タルマッジ改正によって6歳以上の児童を持つ母親は就労可能とみなされ就労要請が課されるようになった(★18)。このようにタルマッジ改正はAFDC受給者の就労要請を強化するものであったにもかかわらず、上院議会ではAFDCの就労要件の強化が注目されるようになっていたため容易に可決された。

 AFDCはその給付対象を、児童、児童を扶養するシングルマザー、失業中の父親がいる児童扶養家族へと拡大してきたが、FAPが否決されたことによってワーキング・プアを含むには至らなかった。FAPは公的扶助の対象にワーキング・プアを想定したため、就労可能な者に対する扶助のあり方への議論を喚起し、公的扶助受給者のなかで就労可能な者の就労努力に対する注目を高めた。さらにFAPは、就労ディスインセンティブが指摘されるなどして否決されたが、2度目の審議過程と通してAFDC受給者に対する就労要請を強化させた。

 結果的にニクソンによるワークフェア構想の提起は、就労能力があるとみなされる者への公的扶助のあり方を、受給者個人の就労努力を高めるものへと方向付ける転機をもたらしたといえる。その転換点においてタルマッジ改正にみられるようにAFDC受給者の就労要請が強化された結果、6歳以上の児童を持つ母親は、(就労要件のない)福祉の対象から除外されることになったのであった。初期のワークフェア構想は、就労可能な受給者に対する就労要請を強化し(就労要件のない)福祉の対象から除外することで、1960年代を通して拡張してきた福祉(AFDC)を縮小させるという効果をもたらした(★19)。

 そもそもFAPの目的は、ワーキング・プアをも扶助の対象とすることで家族の崩壊を防ぐと同時に、受給者に対して就労要請と就労インセンティブの強化を通して勤労倫理を保持することで、AFDCの受給者数を削減することであった。だがFAPの審議過程と挫折を通して、ワーキング・プアは扶助の対象とはされず、受給者の就労インセンティブは疑問視されるようになってしまった。そのため受給者に対して就労要請を強化することのみによって、家族の崩壊を防ぎ勤労倫理を保持し、AFDCの受給者数を削減する政策が実施されるようになったのである。

 したがって初期のワークフェア構想においては、AFDCの受給者数を削減することが主たる目的として作用しており、受給者の家族規範や勤労倫理の強化は二次的なものに過ぎなかった。そのため初期のワークフェア構想は、AFDC受給者やワーキング・プアが抱える貧困・失業問題に対して効果的な政策へと結実しなかったといえる。

 受給者個人の就労努力に注目するアメリカのワークフェア政策は、貧困や失業の原因を個人の就労努力に帰属させてしまうものである。日本で行われようとしている「就労支援」政策がアメリカのワークフェア政策の影響を受けているのであらば、その「就労支援」のあり方についても慎重であるべきではないだろうか。アメリカのワークフェア政策が日本の「就労支援」政策に対して持つ政策的含意についての分析は、今後の研究課題としたい。



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[注]

★1 近年の国内におけるワークフェア政策の動向を、ひとり親家庭を中心に概観したものとして、丹波(2004)。また海外でのワークフェア政策に関連する議論を踏まえ、若年者層などへの自立支援の新しいアプローチを整理したものとして、宮本(2005)。

★2 1966年には、4166万家族のうち444万家族(11%)が貧困であり、貧困家族のうち179万の世帯主(40.4%)が年間50−52週、就労していた(根岸2004: 166-7)。ワーキング・プアの家族とはフルタイムで働く男性が世帯主の家族のことを指す。ワーキング・プアがAFDCを受給できなかったのに対して、パートタイムで働くあるいは失業中の父親が世帯主の要扶養児童家族はAFDCを受給でき、AFDCを受給する母親はパートタイムとフルタイムの両方で就労することを認められていた。

★3 AFDC制度の概要についてThe U.S. Department of Health and Human Services(1998a)を参照。また邦語文献として杉本(2003)、菊地(1998)、根岸(2004)なども参照した。

★4 1962年から1969年にかけてAFDC-UPを含むAFDCの受給家族数は92.4万から153.8万へ、受給者数は359.3万人から614.7万人へと激増していた。だがこのうちAFDC-UP受給家族数は4.8万から6.6万へ、受給者数は22.4万人から36.1万人へと増加したに過ぎず、AFDC-UPを採用した州は、1962年で15、1969年でも25州であった。The U.S. Department of Health and Human Services(1998b)のTable2-1, 2-2を参照。

★5 Joint Economic Committee (1972a: 138)および根岸(2004: 184-6)を参照。

★6 給付額の算定は「給付額=最高給付額−認定所得」で行われていたが、この改正以前の受給者の稼働所得は1ドル増える毎に給付額が1ドル削減されたため、就労インセンティブが著しく損なわれていた。改正後は、例えば月の稼働所得が120ドルであれば、そこから30ドル差し引かれた残りの90ドルの50%である45ドルが認定所得から控除されるため、稼働所得によって給付額が削減される割合は低下した。

★7 1966年から開始された福祉権運動は、1967年に全米福祉権組織(National Welfare Rights Organization)が結成され、より高水準の福祉給付、福祉行政の改革、貧困層への各年保証所得などを求めて展開された。福祉権運動の詳細についてNadasen(2005)を参照。

★8 ジョンソンは1967年の社会保障法改正に署名した後、1968年1月には所得維持に関する委員会を選任し、最低所得法案を視野に入れて公的福祉を多角的に研究すると公表した(Congressional Quarterly, 1968: 993-5)。

★9 就労支援から所得保障への転換という観点から、ケネディ、ジョンソン、ニクソン政権期におけるAFDC政策が受給者にもたらした効果を分析したものとして、小林(2005)を参照。

★10 福祉改革案のなかで給付水準も所得保障という観点から重要であり、給付水準を巡って様々な対立があったが、紙幅の都合上ここでは扱わず当時の貧困ラインを示し給付水準の低さを指摘するにとどめる。福祉改革案で提案された給付額はフードスタンプと合わせて2320ドルであり、1969年の4人家族の貧困ライン3697ドルと比べて低位なものであった。貧困ラインについてはThe U.S. Census of Bureau(2005)を参照。

★11 FAPは、一般的にニクソンがAFDCに代えて導入しようとしたワーキング・プアをも含むかたちでの家族支援制度を指すが、本論文でもこの意味で用いる。

★12 AFDC受給家族の中で父親不在の家族は、1940年で30%であったが、1969年には70%になっていた(Moynihan 1973: 230)。

★13 AFDC受給家族へのフードスタンプを福祉給付金に置き換える案が削除されるなどした(Congressional Quarterly, 1970: 833-4)。

★14 FAPはフリードマンの提案した負の所得税を実現しようとするものでもあった。だがフリードマンは公聴会で、稼働所得に対する限界税率や給付金の削減額をさらに低くしない限り、政府案では就労インセンティブが機能しないであろうと警告した(Congressional Quarterly, 1970: 839)。

★15 Moynihan(1973: 506)から訳出して掲載した。また表題は筆者によるものである。

★16 生活費という観点からFAPとフードスタンプをともに議論する合理性は認められるが、医療扶助は受給資格があっても医療にかからなければ給付はゼロなので、総所得の計算に含めることには無理がある(根岸2004:203-4)。

★17 歳入委員会において委員の注目はFDC受給者とワーキング・プアへの扶助に集まっていたため、成人カテゴリーの扶助を連邦へ一元化することはほとんど議論や異論なく受け入れられた(Bowler 1974: 94)。またFAPでは成人カテゴリーへの現金給付は一人当たり月額90ドルであったが、HR1はそれを1973年に130ドル、1974年に140ドル、1975年に150ドルに引き上げるものであった。

★18 しかし、受給者が就労可能かどうかを決定することは複雑なプロセスであり、個々人の職業技能、医療問題、交通機関やチャイルドケアへの利便性といった要因を調査し評価する必要がある。このため受給者に対して就労要請を実施することは行政にとって非常に困難である。また受給者が就くことのできる職が、どれくらい持続可能なものであるかを判断することはさらに困難である(Joint Economic Committee 1972b: 20)。

★19 これ以降FAPの提起と挫折がもたらした就労可能な受給者に対する就労要請の強化という文脈のもとで、AFDC受給者個人に就労努力を促す圧力は次第に上昇していくことになる。それは1980年代以降のレーガン政権における「福祉バックラッシュ」の中で、児童を扶養するシングルマザーや失業中の父親に対して、就労を強制的に課すという施策に結実するようになった。1980年代後半以降のAFDC受給者に対するワークフェア政策を、受給者の「態度」矯正を行うものとして批判的に論じた小林(2006)を参照。



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[文献]

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◆――――, 1970, Congressional Quarterly Almanac: 91st Congress 1st Session....1969, 25.
◆――――, 1971, Congressional Quarterly Almanac: 91st Congress 2nd Session....1970, 26.
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◆Halpern, Robert, 1999, Fragile Families, Fragile Solutions: A History of Supportive Services for Families in Poverty, New York: Columbia University Press.
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◆――――, 1972b, Issues in Welfare Administration: Welfare-An Administrative Nightmare; A Staff Study Prepared for the Use of the Subcommittee on Fiscal Policy of the Joint Economic Committee Congress of the United States (Studies in Public Welfare, Paper No.5, Part1).
◆菊池馨実、1998、『年金保険の基本構造―アメリカ社会保障制度の展開と自由の理念』北海道大学図書刊行会.
◆小林勇人、2005、「ワークフェア構想の起源と変容―アメリカのAFDC制度をもとに」(立命館大学大学院先端総合学術研究科博士予備論文).
◆――――、2006、「カリフォルニア州GAINプログラムの再検討―ワークフェア政策の評価にむけて」『社会政策研究』6(近日刊行予定).
◆宮本太郎、2005、「ソーシャル・アクティベーション――自立困難な時代の福祉転換(特集:『若い世代』に起こっていること, ワークフェア社会にむけて―これからの生き方、働き方)」『NIRA政策研究』18 (4):14-22.
◆Moynihan, Daniel. Patrick, 1973, The Politics of a Guaranteed Income: The Nixon Administration and the Family Assistance Plan, New York: Random House.
◆Nadasen, Premilla, 2005, Welfare Warriors: The Welfare Rights Movement in the United States, New York and Oxon: Routledge.
◆根岸毅宏、2004、「ニクソン政権のFAP法案とアメリカの公的扶助制度――1996年福祉改革に至る歴史的背景として」『国学院大学経済学』52 (3, 4): 417-72.
◆Rein, Mildred, 1974, Work or Welfare?: Factors in the Choice for AFDC Mothers, New York: Praeger Publishers.
◆杉本貴代栄、2003、『アメリカ社会福祉の女性史』勁草書房.
◆丹波史紀、2004、「わが国におけるひとり親家庭へのワークフェア政策の動向と課題」『総合社会福祉研究』、101-10.
◆The U.S. Department of Health and Human Services, 1998a, "A Brief History of the AFDC Program" (http://www.aspe.hhs.gov/hsp/AFDC/baseline/1history.pdf, February 3, 2006).
◆――――, 1998b, "Trends in the AFDC Caseload since 1962" (http://www.aspe.hhs.gov/hsp/AFDC/baseline/2caseload.pdf, February 3, 2006).
◆The U.S. Census of Bureau, 2005, "Historical Poverty Tables: Poverty by Definition of Income" (http://www.census.gov/hhes/www/poverty/histpov/rdp01.html, February 3, 2006).
◆Trattner, Walter. I., 1999, From Poor Law to Welfare State: A History of Social Welfare in America, 6th ed., New York: The Free Press.



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[正誤表]

★112ページ、注6の2-3行目
「そこから30ドル差し引かれた残りの90ドルの50%である45ドルが」 → 「最初の30ドルと、それを超える90ドルの1/3である30ドルとの、合わせて60ドルが」

・110ページ、下から2行目
「Social Security Income」 → 「Supplemental Security Income」



[言及・紹介]

◆ 20061201 立岩真也 「ワークフェア、自立支援」『現代思想』34(14): 8-19

◆ 20060710 立岩真也 『希望について』青土社

◆ 20060601 立岩真也 「労働について これからの予定――家族・性・市場 9」『現代思想』34(7):8-19


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◇English

[Title] The Results of a Vision of the Early Workfare: The Shrinking of Welfare by the Strength of Work Requirements for AFDC Recipients

[Name] KOBAYASHI, Hayato

[Abstract]

 This paper shows how and why work requirements for Aid to Families with Dependent Children: AFDC recipients developed through analyzing why had work requirements imposed on them. In the 1960s, U.S. society had a lack of systems for the problems of unemployment and poverty related to racial and sexual discrimination. To meet needs, the federal government created new public assistance programs, particularly AFDC, which included work support programs. However, AFDC recipients could not get jobs and the number of recipients increased. This brought financial difficulty to local governments. As a result, a conservative shift occurred which emphasized the breakdown of the work ethic and the family. In 1969, President Nixon proposed the idea of "workfare," which intended to set work requirements and work incentives in AFDC programs for employable recipients and for the working poor. Although his proposal failed to be approved, work requirements for employable but non-working recipients and work incentives for working recipients and the working poor were actually strengthened beyond Nixon's plan in 1972. Even single mother recipients of AFDC were regarded as employable. Workfare had the effect of shrinking the liberal expansion of public assistance.

[Keywords] Workfare, Single mothers, Work requirement, AFDC, FAP



UP:20060804 REV:20060806, 1218,20, 20070609, 20080213, 1106
初期ワークフェア構想  ◇ワークフェア文献表  ◇『コア・エシックス』

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