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冗談でも、本気ならなおさら、"Don't Kill Me!"
――ニューヨークのワークフェア政策の「現実」――

小林 勇人 2007
『VOL』2: 108-15


[目次]

はじめに

社会サービス課

勤労倫理の埋め込み――A社のオリエンテーション

リベラルなエンパワーメント――B社の「ワーク・バリュー・オークション」

ニューヨーク市のワークフェア



文献


◇以下、全文を掲載:HPへの掲載を快く承諾してくださった編集者・出版社のかたがたに感謝致します。
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はじめに

 眠れない――そう、それもそのはず。明日は夢にまでみたワークフェアの「現実」が待ち構えているのだ。「ワークフェア」という言葉を耳にしたのは2002年の春で、なんだかんだで腰を据えて研究しようと決めたのが2004年の春頃だった。ワークフェアとは、英語のworkとwelfareの合成語workfareで、今はいろいろな国で流行しているけど、起源を辿るとアメリカは公民権運動の転換期1968年にミシシッピー州でチャールズ・エヴァーズって人が考案した言葉だ[★1] 。言葉の意味は、時代を経て流布する過程で様々に変容し多義的になっているけど、今のアメリカでは、公的扶助受給者に対して受給条件として就労または就労に関連する活動に参加することを義務付ける福祉政策を指すのが一般的だ[★2] 。映画『ボーリング・フォー・コロンバイン』では6歳の少年が小学校で銃殺事件を起こす背景として、少年の母親タマーラ(黒人シングル・マザー)が参加させられていたワークフェアプログラムが取り挙げられている[★3] 。そんなワークフェア政策が受給者に対してどのような影響を及ぼすのかを少しでも自分の肌で体験できればと、ニューヨークに短期間のフィールドワークにやってきたのだった [★4] 。

社会サービス課

 ここはニューヨーク州のK市(仮名)で、2006年3月1日(現地日付)に、社会サービス課に見学をしてきたばかり。HPで同市の社会サービス課のページを見ていると連絡先が掲載されていたので電話をしてみると、いつでも来ていいということだったので、気楽な感じででかけた。社会サービス課の建物は銀行や美術館なんかが立ち並ぶ大通りにあった。普段何気に歩いていたときは見落としていたが案外身近な場所だった。階段を数段上って一階の扉を二枚開けて中に入り数歩進んですぐに、なんとガードマンがいてセキュリティー・チェックがあった。空港のゲートなんかで行われているのと同じ要領で荷物や金属類のものを預けると、それらはガードマンにかけられチェックされ、人はゲートをくぐって音が鳴らなければOK。体格はいいけどちょっと気だるい感じの非白人のガードマンのおいちゃんに、これこれこうでちょっと見学したいというと、あそこに行けと教えてくれ、ゲートを入ってすぐ前面にあったボックスに移動した。ボックスは社会サービス課の入り口側に背を向けていたので回りこむと、ボックスの前にはフロア一杯に100席ぐらい椅子があって、それをぐるっと囲むように壁際にいろいろな部署のデスクがあった。当のボックスには3人の白人の職員がいて、それぞれの窓口の前に列を作って並ぶ公的扶助受給者あるいは申請者に対応していた。僕も列に並んで見学させてくれと頼むと、見て回るだけ(話しかけちゃだめみたいな感じ)と言われたのでとりあえず椅子に座った。

 最初はかなり緊張していたけど、ちょっと緊張がとけて辺りを見回すと、列に並んでいる人や椅子に座っているのは、白人も少しはいるがほとんどは非白人(何系なのかまだ区別できない)で、女性が多いが男性も思ったよりも結構いた。子連れの(おそらくシングル)マザーの周りでは、子どもたちがはしゃいでいた。一人の女性が、すごい剣幕で仕事がどうのこうのと怒っていて、隣の人はちょっとあきれながら相槌を打っていた。よっぽど僕にその話をきかせてほしい、と思いながらも話しかけるのは気がひけたので、話しかけられるのを待っていたのだけどなしのつぶて。かといってこのまま帰るのもなんなので、もう一度窓口に行きパンフレットか何かくれと言うと、申請用紙と申請マニュアル一式をくれた。ざっと目を通すと、連邦の法律に基づいて「いかに福祉を受給する際に義務が大事か」ということが強調してあった。ワークフェアに参加させられるのは雇用可能な受給者だけとなっているが、雇用可能かどうかは社会サービス課での面接で判定される。しばらくマニュアルを見たり辺りを眺め歩き、トイレの近くにあったビラ置き場みたいなところから、チャイルド・ケアのことが書かれているビラなどをとり、社会サービス課を出た。

 社会サービス課で行われる雇用可能かどうかを判断する面接が気になっていたけど、なかなか見学の許可がおりないので、雇用可能な受給者に対して行われる就労支援・促進プログラム(ワークフェアプログラム)が実施されているところを見学することにした。K市のHPを調べる限りでは、ワークフェアプログラムを提供しているのは7箇所。所在地や連絡先も掲載されているので、片っ端から電話した。

 そのなかで話がまとまったのが州と市が共同で運営する一般扶助(General Assistance)のうち主に単身者を対象とするA社(仮名)。代表のZ(仮名)に電話すると、仕事を終えて車で帰宅している最中だった。謝ってまたかけ直すことを伝えると、いいから気にせず話してくれ、と言われ、断られてばかりのいつもと感じが違うのでとまどいながらもぽつりぽつりしゃべると、「really?」と大げさな反応が返ってくる。ワークフェアは日本でも流行っているとか、ワークフェアモデルの話をするとそんなことまで知っているのか〜、と興味を持ってくれるのが嬉しくなり、話ははずみ、今度見学に行ってもいいかと言うと、あっさりOKが出た。

勤労倫理の埋め込み――A社のオリエンテーション

 2006年3月6日(月)の朝。寝不足で少し遅れそうになったので走ってA社の前に辿り着く。受付の白人の女の子に自分の名前を告げZと会うことになっているんだと話してしばらくすると、こっちにこいと言うので、ついてくと四畳半ぐらいの個室があって中に通される。中には白人の思ったよりも若くて快活そうな男性Zがいた。挨拶を交わすと、にっこりと笑った顔に、あどけなさが感じられる。軽く自己紹介を交わして、ワークフェアについて電話での議論の続きをあーでもないこーでもない、と話しているうちに、Zは熱くなってきて、彼の会社がどれだけ良い仕事をしているのかと熱弁していたが、時計に目をやると、時間だ、まーみてみてくれ、と言ってさらに奥の大部屋に向かった。

 大部屋には、性別・年齢・人種もまちまちに13人。でもエイジアンは一人もおらず、僕が入っていくと、好奇の目で見られるように感じてしまう。空いている席に座ってしばらくすると、近くのお兄ちゃんが、話しかけてくれるのだが、なまりなのか何のか聞き取れず、苦笑い。もう一度二度同じことを話しかけてくれるのだが、相変わらず聞き取れず苦笑いしていると、こりゃだめだ〜って感じでそっぽをむかれる。

 そうこうしているうちに、正面のホワイトボードの前でZが、彼/女らがなぜここに来ているかを説明する。すなわち1996年の連邦政府の福祉改革で彼/女らは働く義務が課されるようになったのであり、働けるけど職に就けない人は就労支援プログラムに参加しなければならず、K市は就労支援プログラムをA社に委託したのだ、うんぬんと。フロアーの反応はぽか〜んとしたもので、Zの真剣な面持ちが際立つ。そうこうしているうちに、ニットキャップをかぶった中年の非白人のおいちゃんが、椅子にどっかり背をもたせたまま、ラップのような身振りしゃべりで、「なっ、んっ、でっ、、おれたちーが、はたらかなくっちゃ、いっけ、ない、んだ、よ〜」みたいな感じで早口にまくしたて始めた。ぽか〜んとしてたフロアーのみんなは、くすくすっと笑ったり。僕に最初話しかけてくれたお兄ちゃんがこっちを向いて、おい、おもしれ〜な〜って感じで笑いかけてくれるのだけど、僕は笑えない。Zの表情は険しくなり、労働の義務を強調しようとするのだが、おいちゃんのまくしたてる勢いは加速していく。フロアーは「いいぞ〜、やれやれ〜」という調子で盛り上がる。業を煮やしたZは、「ここは市役所じゃないんだぞ、営利目的の会社なんだ、俺の会社なんだ、文句があるなら出て行け!」と言う。さらにわめきたてるおいちゃんに、Zはつかつかと近寄り、身体に手をかけた。いつのまにか、戸口には、かなり体格の良い非白人の若い警備員(?)のお兄ちゃんがきてて、電話を片手にしている。おいちゃんは、てこでも動くまいと、わーわー言っている。警備員のお兄ちゃんは「(警察に)電話しましょうか?」という感じなのだが、Zは顔を横にふって、待てといった面持ちで、「出て行くか、おとなしく座るか?どっちだ?」「警察をよぶぞ」とおいちゃんに言い渡す。状況を察したおいちゃんは、「ど〜んと、きーる、みー!・・・ど〜んと、きーる、みー!・・・」と叫んで、Zの足に手を回して哀願するのみ。最初の勢いはどこへやら今にも泣き出しそうなおいちゃんの脇を抱えて、Zは文字通りおいちゃんを外につまみ出していった。あっけにとられてると、Zが凄い速さで戻ってきたとみるや、おいちゃんのいた椅子から鞄や上着をひっつかみ、また外に出て行った。

 いぇ〜〜〜っ! どうなってんだ? と唖然としていると、Zが息を切らせながら戻ってきて、説明に戻り始めた。ところが、つまみ出されたおいちゃんの隣に座っていた若い非白人のお兄ちゃんが、さっきのおじちゃんよりはちょっと丁寧に、だけど、明らかに憤って、またもやラップ調で「っな、っにーも、つまみだ〜す、ことっは、ない、じゃな〜いか!戻してやれよ。」といった抗議を始めた。フロアーも、そうだ、そうだ、といった感じなのだが、お兄ちゃんの抗議はZの逆鱗に触れたらしく、「え〜い、うるさい!お前もつまみだすぞ」と怒鳴る。お兄ちゃんは弁明しようとしているうちに、もう戸外につまみ出されていた。

 それまでにぎやかだったフロアーはし〜んと静まりかえり、再開されたZのプレゼンの声が響き渡る。「ウェルフェア・トゥー・ワークには二つのアプローチがあって、ひとつは教育や職業訓練を重視する人的資源開発アプローチ、もう一つが、即座の就労を重視するワークファーストアプローチだ。NYはどちらだと思う?」とZが聞くと、フロアーの一人が、「チーパー、ワン」と答える。Zが良くわかってんじゃねーか、という面持ちで満足の笑みを浮かべながら、いかに即座に就労しなければならないかを説明する。アメリカ人だからなのか、Zのキャラクターなのか、彼のジェスチャーは凄く、「お前たちは〜〜〜」というところで、片手を縦にぐるんぐるん回して、「働かなくちゃいけないんだ」というところで、両手の人差し指を目の前の受給者に突き立てる。いわばトム・クルーズばりのオーバーアクション。

 ここらへんで出欠確認がとられ、一人一人名前を呼ばれて返事をしていくのだが、返事のない名前が二人――さきほどつまみ出された二人だ。そして、名前が呼ばれない者が一人――僕だった。何度か僕に話しかけてくれたお兄ちゃんがお前はいいのか? と心配してくれて、今回は聞き取れたのだが、答えれない僕。そんな僕らをみてとったZが、「今日はスペシャルなゲストがいる。そこに座っている彼だ。はるばる日本からわが社の見学にこられたんだ。われわれは注目されてるんだぞ」といった慇懃な説明。それまで言葉も通じないどこの馬の骨とも分からないエイジアンの受給者とおそらく思われていたであろう僕は、いっぺんに観察者へと豹変。フロアーには緊張感が漂ったように感じられて、それまで僕はなんとなく彼/女らの一員のように感じていたのだけど、急に周りとの間に線が引かれたような感じ。

 Zは先ほどの説明に加えて、A社でのプログラムの概要を説明する。プログラムは全部で4週間で、最初の2週間は、午前中がワークショップ、午後が求職活動にあてられ、残りの2週間は求職活動のみで、今日は初日のオリエンテーション。全4週間を経過しても職に就けない者は、就労経験プログラムに参加しなければならない。就労経験プログラムとは、受給金額をその地域の最低賃金で割って就労に従事しなければならない時間を算出し、受給者はその時間政府(や非営利組織)に雇われて、街路や公園の清掃、落書き消しなどを行うといったプログラム。就労経験プログラムの説明の時フロアーから「その仕事の時給は?」という質問が出るが、Zは険しい表情を変えることなく「アンペイドだ」と答える。フロアーからはため息や「シ〜ット」という呟き。他方で、毎週木曜日の午後は、「ジョブ・クラブ」が開催され、求職活動の情報交換をしたり、雇用の専門化(the Employment Specialist)が各受給者の使用者とのコンタクトをチェックしたり、受給者の雇用に関心のある企業側からも参加者がある(その企業とは、大手ディスカウントショップのWal-Martだとか、病院やホテルなど)。最後のほうで「お前たちが職に就けたらうちの会社は金をもらえるんだ」と早口に付け加えると、フロアーから、「いくらだ?」と質問が。「いっつ、のっと、ゆあびじねす」再び「いくらなんだ?」「いっつ、のっと、ゆあびじねす。」と応酬。一通り説明が終わり、ことの真相がわかってくるにつれて、みんな真剣にいろいろ質問をし始める。どうやったら働けるんだ? どういうプログラムなんだ・・・? Zは満足そうに質問に簡単に答えると、詳しくは次回だ、ときりあげて昼休憩に入り、最初の個室に僕を連れて戻った。

 僕はげんなり疲れていた。アメリカのワークフェアはシビアなんだろうな、と思ってたけど、まさかこんな(喜)劇的なかたちで、数年来追いかけてきたワークフェアの「現実」に出くわそうとは。またプレゼン前にあんなに自信満々にプログラムの良さを力説していたZとどう話していいのかも分からなかった。口火を切ったのはZだった。開口一番「アイ・アポロジャイズ!」と謝られた。「こんなはずじゃなかったんだ。いつもはもっと違うんだ。こんな・・・こんなことは滅多にないんだよ。残念だ。他の日に見に来てくれてたら・・・」気を取り直して、民間委託や給与体系の仕組みを聞くと、受給者一人に対して、10日間の授業を終えると750ドル、30日間の職への就労斡旋に成功すると1250ドル、職に就いてから90日間その職を維持させることに成功するとさらに1750ドルが市からA社に支払われるということだった。

 さらに委託の仕組みの詳細を聞くと、Zはかなり丁寧に答えようとしてくれるのだけど、どうやら財源も複雑でまた実際の就労訓練プログラムはさらに孫請けに出してたりと、ややこしくてよく分からなかった。そんな僕の表情を読み取ってか、Zは資料を取り出してきて、コピーしてくれたり親切だった。途中、ドアをノックして非白人のかなり若い青年が、おそるおそる質問をし始めた。どうやらフード・スタンプ(食料扶助)の受給資格があるにもかかわらず受け取れなくて、お腹がすいて困っているらしかった。Zはそれはおかしいな〜、とどうしようか迷っていたが、彼のデスクの脇に置いてあったりんごとバナナに目がとまるとそれらを掴み、戸口の彼にすちゃっすちゃっと放り投げて、にこっと笑った。青年は、何度もお礼を言って出てった。

 彼のデスクの上には、写真が飾ってあって、Zの奥さんとまだ幼い娘が写っていた。その写真を見つめながら、Zは神妙な面持ちで、俺も昔は大学で社会福祉を学び卒業して、非営利組織で働き始めたんだ、と語り始めた。ホームレスや精神障害者を対象とした活動をしていたらしいが、数年前に営利組織に転向したらしい。その理由を尋ねると、「同じことをやってても給料が全然違うんだ。同じことをやるんなら、給料が良いほうがいいだろ?」と。僕はそんな彼の話を聞きながら妻や娘も養わなければならないんだろうなって思っていると、彼の表情は明るくなり、A社が近年みるみるうちに急成長していて、隣町にも進出して成功していることを教えてくれた。そして、僕に大学院を卒業したらどうするのか? ときいてきた。僕が答えに困っていると、「職はないだろ? だったら、うちの日本支社を作って、一緒に儲けようじゃないか!」と。どこから冗談でどこまで本気かわからないけど、愛嬌のある笑顔で手を差し伸べられたので、僕らは固い(?)握手を交わした。

リベラルなエンパワーメント――B社の「ワーク・バリュー・オークション」

 後日、K市のワークフェアプログラムの委託先であるB社に、アポイントメントをとらずに直接でかけてみた。B社は非営利組織で、女性運動に力を入れているところだった。通りに面する重い扉はオートロックになっていて、インターホンが設置してあった。そこで、おそるおそる来訪を告げると、インターホン越しに女性の丁寧な受け答えがあり、とりあえず中に入ってよいことになった。受付の近くまで進むと、こざっぱりした身なりの女性がいて、いくつかの質問に答えてくれた。A社のZとは異なり、分からないところは勉強不足で御免なさい、などと丁寧な応答をしてくれて好印象。一通り質問を終えて、プログラムの見学は可能か尋ねると、上司にきいてみないと分からないので、後日メールするとのことだった。

 A社が州と市が共同で運営する一般扶助のうち主に単身世帯を対象としているのに対して、B社は家族世帯を対象としていて、対象は異なるものの両社はなんとなくライバル関係にあるみたいで、A社のZは、B社を「鼻持ちならない、匂う!」と訝しがっていた。その時は、なんのことだか分からなかったが、B社の訪問時にもらったパンフレットなどを見ていると、B社では、元受刑者の社会復帰プログラムも実施していて、対象は公的扶助受給者だけには限らなかったのだ。なるほど、Zが言っていたのはこのことか、と思っていると、数日後、プログラム見学の許可がおりたメールが届き、参加することになった。

 場所は、市民図書館で、その一室を借りて行われるとのことだった。当日の僕は、A社の件もあったので、今度はどんなワークフェアの「現実」が待ち受けているのだろうかと、不安を抱えながら向かった。部屋に着くと、圧倒的に女性が多かった。すなわち、B社は連邦政府の公的扶助の受給期限(60ヶ月)を過ぎて受給資格を失った [★5] シングルマザー世帯を主な対象としているのだった。30名ぐらいの受給者と5名程のスタッフ、そして見学者の僕。人数が多かったので、二部屋に分かれてプログラムは行われた。僕の参加した部屋は、受給者13人で、そのうち男性は一人だけ。また白人の女性スタッフが二人だった。

 ホワイトボードの前で、女性スタッフが、今日のプログラムを説明する。プログラムは、「ワーク・バリュー・オークション」といって、各自が1万ドルを持ち金として、労働の価値を競り落とすというシミュレーションだった。労働の価値はリスト化されていて、雇用保障、名声、給料の良さ、達成感、決まりきった活動、多様性、創造性、知的労働、自営、社会貢献、リーダーシップ、肉体的な活動、監督下の仕事、手作業、の14項目で、それぞれ簡単な説明がついていた。オークションを通して、労働の価値をみんなで考えようというものである。女性スタッフの思慮深く、半ば諭すような語り口に、Zの勤労倫理の強調との対照を感じる。またスタッフは笑いながら楽しんでやっていて、またしても好印象。

 受給者たちのほうはどうなんだろう? と思ってたけど、オークションが始まるやいなや、最初の項目の雇用保障にいきなり1万ドルつぎ込む人が現れ、場は騒然とする。みんな「本当にそれでいいの? もうあなたの仕事には他に何の価値も付け加えられないのよ」と言いつつも、本人は「これでいいんだ」と思いのたけを語る。わいわいがやがや、オークションが進むにつれて、会場は熱気につつまれる。私は3000ドルよ、いやいや私は、4000ドル。他にはいませんか? など盛り上がる。なかには、1000ドルで落札された「決まりきった活動」のように、人気のない項目があり、大半の人は「そんな項目に価値をつけてどうするの?」と笑うのだけど、スタッフの人は真剣に、それを競り落とした人の話をきくように促す。その人がうまく理由を説明できないでいると、スタッフが話を受けて、日々違う仕事をすることのしんどさ、決まりきった仕事は一見退屈そうだけど、その仕事を続けられることの重要さなどに触れると、フロアーは感心したように頷く。

 こうしてオークションは順調に進んでいくのだが、フロアーの中にもやはり、この場のノリにのれない人はいて、それはまだティーンエイジャーに見える女の子だった。しかし、オークションの熱気やディスカッションを通してのやりとりなんかにほぐされてか、彼女も終盤は積極的に競り落としにかかる。そんな会場の雰囲気にA社との対比から好感を得ていた僕だけど、途中から妙に冷めてしまった。確かに、労働の価値をあれこれディスカッションして、どんな仕事が重要か話しあうのはいいんだけど、なんでこんなに盛り上がれるのだろう? だってシミュレーションだよ。たとえさまざまな価値を競り落としたからといって、いったいこの中の何人が実際にその望むような価値を持つ仕事に就けるというのだろうか・・・? それを思うと、会場の熱気とは裏腹に、いや、それに反比例して、僕は虚しい気持ちになっていた。

ニューヨーク市のワークフェア

 フィールドワークを通していろいろ考えさせられるところがあった僕は、帰国後にK市ではなくニューヨーク市のワークフェアについて調べて論文を書いた [★6] 。そこで分かったのは、ニューヨーク市では、ジュリアーニ政権下の行政改革のなかで福祉も抜本的に改革されたことだった。就労経験プログラムを含め同市のワークフェアプログラムは、業績ベースの民間委託と情報管理システムを通して行われ、この仕組みはニューヨーク州さらには全米で注目されていて、おそらくK市もこれと同じような仕組みだったのだろう。その論文では扱えなかったけど、重要なのは犯罪抑制政策と福祉政策の関連性だ [★7] 。ジュリアーニは自伝のなかで犯罪抑制政策と並べて福祉政策の成功を自賛しているが、実際、ニューヨーク市の福祉政策における情報管理システムは犯罪抑制政策のそれを模して作られた。これらに通低するのはおそらく「アンダークラス」という概念なりそれを支える理論だろう。

 僕がここに挙げたA社とB社の話は、ワークフェアの「現実」のほんのわずかな一面に過ぎない。受給者がどのような職に就かされて、そこでどのように働いているのかまでは、知ることができなかった(また失業や貧困状態にあっても、福祉を受給する以外にも多様な生の営なみ方があるはずだ)。しかし、ある種の典型例として扱えるとも思う。即座の就労斡旋を重視して、それが無理なら就労経験と称して「落書き」消しなんかをアンペイドで行わせる。片や絵に描いた餅のようなエンパワーメント。「働け」、にせよ、「働くことの価値」、にせよ、いったいどこまで本気なのだろうかと思う。失業率が高くて労働市場に空きがないのだったら、働くことは難しいじゃないか。だったら無理して働かせなくてもいいじゃないか。というよりも、働くのが難しくて、あるいは働いていても貧困だから福祉を受給しているのじゃないか。本気じゃないとしたら、手の込んだ冗談なのだろうか。その喜劇のなかで、A社でつまみ出されたおいちゃんも、はまり役を演じていただけなのだろうか。

 いや、そんなことはない。福祉の民営化のなかで、突如として巨大な準市場が出現したのであり、さまざまな福祉企業がそこから巨額の利潤を得ているし、政府は福祉費用の削減に成功している。他方で、ワークフェアプログラムを通して受給者が就く職は使用者に都合の良い低賃金で不安定な労働、もしくは政府に都合のよい「落書き」消しのような「仕事」だ。職に就くのが困難ななかで、失業や貧困に対して改めて所得保障の意義が問われなければならない。

 最後に、A社でつまみ出されたおいちゃんの「ど〜んと・きる・みー」が鳴り響く僕の頭のなかに、もう一つの響きがあることを紹介して終わりたい。マンハッタン滞在中にイースト・リヴァー越しの対岸に度派手な「落書き」をみた僕は、数日後ウィリアムズ・バーグに渡った [★8] 。そして辺りを散策しているうちに、巨大な廃屋工場を見つけた。恐る恐る敷地内に入り、奥に進むと工場は川岸にあったので、今度はイースト・リヴァー越しにマンハッタンが見渡せた。確かに廃墟ビルの川岸の壁一面に落書きはあるのだけど、何か匂うな〜と思って調べていると、秘密の抜け穴を見つけて、廃屋のなかに滑り込むことができた。巨大な空間の壁のいたるところにカラフルな落書きの嵐。そのなかにはこう記してあった――The Love Kills Theory.





★1 チャールズ・エヴァーズは、南部公民権運動の英雄メドガー・エヴァーズの実兄である。ワークフェア構想の起源に関しては、自警団と組み合わせたボイコット運動から議会政治へと転換していったチャールズ・エヴァーズの戦略に着目して考察した、小林(2007a)を参照。他方で、ワークフェアという語は、ニクソンの福祉改革案についてのTV演説で全米に普及することになった。同案を公的扶助受給者に対する就労要請の観点から考察したものとして、小林(2006a)を参照。

★2 1960年代後半からアメリカの公的扶助受給者数は、公民権運動の隆盛やそれに付随する福祉権運動の主張を通して、「福祉爆発」と呼ばれる程にまで激増していた。これに対して連邦政府は職業訓練・教育プログラム等の就労支援を通して公的扶助受給者の労働市場への復帰を意図したが効果はあがらなかった。そのため1980年代以降、受給者に対する怠惰な「ウェルフェア・マザー」というイメージも伴って 受給者個人の行動様式が問題とされ、雇用可能な公的扶助受給者の就労義務が強化されるようになったのである。

★3 1996年福祉改革法によってタマーラはワークフェアプログラムに参加しなければならなくなったのだが、同法成立の根拠の一つとなったカリフォルニア州GAINプログラムを再検討したものとして、小林(2006b)を参照。

★4 フィールドワークは、2006年2月16日から3月17日にかけてのニューヨーク滞在期間中に行った。フィールドワークの実施にあたって、2005年度立命館大学大学院海外研究奨励金から支援を受けた。本稿はその成果の一部でもある。

★5 連邦政府が児童を扶養する貧困家族に対して実施する現金扶助には、かつて「要扶養児童家族扶助(Aid to Families with Dependent Children: AFDC)」があったが、1996年の福祉改革によって「貧困家族への一時的扶助(Temporary Assistance for Needy Families: TANF)」に変更された。同法によって受給者はTANFの受給期間を生涯で60ヶ月に制限されるようになった。すなわち、権利(entitlement)としての福祉が否定されたのだ。ニューヨーク市の事例を含め、アメリカの福祉改革については、根岸(2006)が詳しい。

★6 紙幅の制限もありごく限られた論点しか扱えなかったが論文としてまとめたので詳細は、小林(2007b)を参照。

★7 例えば、ジュリアーニは受給資格証明審査の厳格化に力を入れて公的扶助の申請に際して指紋押捺を義務付けた。指紋押捺は「福祉詐欺(welfare fraud)」に対して費用効果がないという批判があるが、それに対する反批判では、指紋押捺について、申請の削減効果に加えて、指名手配中の重犯罪者を逮捕できるという利点が挙げられている(Clark 2005: 94-5)。そこでは、指名手配中の犯罪者の多くが福祉受給者あるいは申請者であり、その結果、ニューヨーク州で7500人の福祉受給者が拘留され、さらに1750人の指名手配中の重犯罪者が公的扶助申請時に拘留されたことが指摘されている。すなわち、福祉政策に導入された指紋押捺が犯罪削減に貢献したというのだ。

★8 「落書き」に興味を抱いたのは、渡米前に高祖(2003)を読んでいたためである。ここに記して謝辞に代えさせていただきたい。


文献

Clark, James, 2005, "Protecting against Welfare Fraud," Savas Emanuel S. ed., Managing Welfare Reform in New York City, Lanham: Rowman & Littelefield, 85-104.
小林勇人,2006a,「初期ワークフェア構想の帰結――就労要請の強化による福祉の縮小」 『コア・エシックス』2: 103-14.
――――,2006b,「カリフォルニア州GAINプログラムの再検討――ワークフェア政策の評価にむけて」『社会政策研究』6: 165-83.
――――,2007a,「ワークフェア構想の起源と変容――チャールズ・エヴァーズからリチャード・ニクソンへ」『コア・エシックス』3(近日刊行予定).
――――,2007b,「ニューヨーク市のワークフェア政策――就労『支援』プログラムが受給者にもたらす効果」『福祉社会学研究』4(近日刊行予定).
高祖岩三郎,2003,「『その名』を公共圏に記しつづけよ!」『現代思想』31(12): 62-79.
根岸毅宏,2006,『アメリカの福祉改革』日本経済評論社.




[Web版でのおまけ]

以下、ウィリアムズ・バーグの廃屋で筆者による撮影。














UP:20070616, 20090414
ニューヨークのワークフェア  ◇ニューヨーク市のワークフェア政策文献表  ◇ワークフェア文献表 

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