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ワークフェア構想の起源と変容
―チャールズ・エヴァーズからリチャード・ニクソンへ―

小林 勇人 2007
『コア・エシックス』3: 133-42


[目次]

■1 はじめに

■2 チャールズ・エヴァーズの構想

 2−1 1968年の下院議員選挙
 2−2 フェーエット市長としての活躍
 2−3 エヴァーズの福祉観と戦略

■3 ワークフェア構想の変容――ニクソンの福祉改革案を経て

■4 結論

[注]

[文献]

[正誤表]

[言及・紹介]

[English]

[要旨] → [Abstract]を参照

[キーワード] ワークフェア、チャールズ・エヴァーズ、公民権運動、ミシシッピー、ニクソン



◇以下、全文を掲載

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http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/ce/2007/kh01.pdf


■1. はじめに

 「ワークフェア(workfare)」という語は、「work-for-welfare」の合成語あるいは「welfare-to-work」と同義語であり、アメリカでは一般的に公的扶助受給者に対して受給要件として労働あるいは労働関連の活動を義務付ける政策を意味する。ワークフェアはアメリカに起源を持つが、サッチャー政権期にイギリスに政策移転される(Dolowitz 1998)などしてヨーロッパに普及している(Handler 2004)。また近年日本国内で展開されている「自立支援」政策に影響を与えていることが指摘される(宮本2005)など、現在では福祉国家全般に普及しつつあるといっても過言ではない。しかし、ワークフェアがアメリカの公民権運動の中で提起されたということは、先行研究(Nathan 1993, Peck 2001など)ではあまり注目されてこなかった。

 近年ではワークフェアは「社会扶助給付金の見返りとして人々に就労を要請するプログラムあるいはそうした体制」(Lodemel and Trickey 2000: 6)と定義されるように、普及過程において非常に多義的かつ曖昧な概念へと変容している。またワークフェアは多義的かつ曖昧な概念であるがゆえに、その内実を問われることなく、あるいは福祉への賛否双方からの妥協点として、受容されやすいともいえる。

 他方でワークフェアは、失業・貧困問題を個人の自助努力(とそれを支援する政策)によって解決を図るものであり、自助努力(とそれを支援する政策)によって解決されない失業・貧困問題を個人の責任に帰す点で問題がある、といった批判も根強い。このような問題や批判が存在するにもかかわらずワークフェアという語が普及する要因の一つに、同語が変容過程で得た多義性・曖昧さがあるならば、改めてワークフェア構想の起源を明らかにすることが求められているといえよう。

 本稿は、第2章で、「ワークフェア」という語を考案したチャールズ・エヴァーズの構想には、黒人の有権者登録・投票運動を展開するための戦略があったことを明らかにする。第3章で、「ワークフェア」はニクソンの福祉改革案の審議過程で全米に広がることになるが、その過程で「ワークフェア」がどのような意味をもつようになったのかを分析する。第4章で、ワークフェアがエヴァーズの構想からニクソンの福祉改革案を経てどのように変容したのかを結論付け、ワークフェア構想の起源が現在のワークフェア政策にもたらす示唆と今後の研究課題を示す。


■2. チャールズ・エヴァーズの構想

 Oxford English Dictionary(Simpson and Weiner prepared 1989: 548, 以下OEDと略)によれば「ワークフェア」という語が記録に残る形で初めて使用されたのは、1968年のチャールズ・エヴァーズ(Charles Evers)からである (★1)。彼は南部公民権運動の英雄であるメドガー・エヴァーズ(Medgar Evers)の三歳年上の兄であり、彼自身もまたミシシッピー州の公民権運動の重要な指導者であった。彼は1968年1月にミシシッピー州の下院選挙第三区から連邦議員に立候補した際、「ワークフェア」を考案したのだった。本章では、エヴァーズが「ワークフェア」を考案した背景には「雇用の確保」とそれを前提にした福祉からの脱却という戦略があったことを明らかにする。

■2−1. 1968年の下院議員選挙

 1968年1月に、ウィリアムズ(John Bell Williams)がミシシッピー州の新たな州知事になるため州議会を去ると、7人の候補者が特別予備選挙に出馬しウィリアムズの後任を果たそうとした。そのなかの一人としてエヴァーズも立候補したが、残りの6人は白人であった。エヴァーズは予備選挙で相対多数の票を獲得したが、ミシシッピー州では絶対多数の得票が必要とされるため、勝敗は上位2名の決選投票に持ち越された。結局彼は3月12日に、ウィリアムズのスタッフであったグリフィン(Charles H. Griffin)に87000票対43000票で決選投票に敗れた。しかし選挙運動は公民権運動にとって重要な意義を持つことになった。初めてミシシッピー州の有権者は黒人の立候補者に直面したのであり、ウィリアムズの選挙区であった第三区は州都ジャクソンを含んでいたのでテレビはその効果を州全体に広めた。またグリフィンの87000票は、白人候補者にとってあるいは黒人候補者に反対するものとしては、それほど多くの票ではないのに対して、エヴァーズの43000票のほとんど全ては彼が組織したものであった。彼は第三区で、1965年以来75000人の黒人の有権者登録を率いてきたのであり、初めてミシシッピー州の様々な黒人グループの派閥が遂行可能な連合を結成できたのだった(Canzoneri 1968: 67)。

 エヴァーズの選挙方針の基盤には二つのテーマがあった。第一に、「黒人と白人の両方」を代表することであり、第二に、「『福祉をワークフェア(work-fare)に置き換える』であろう連邦政府の雇用プログラムにむけて取り組むという公約」であった(Franklin 1968)。第三区はミシシッピー州のなかで2番目に黒人有権者の多い地区であり75000人の黒人有権者の登録があったが、選挙で勝つためには不十分であり(Evers 1971: 164-5)白人票を獲得する必要があった。エヴァーズは、「選挙区の全ての人々――黒人と白人――を代表したい」として選挙ポスターには「皆のためのエヴァーズ」というスローガンを掲げ(Evers and Szanton 1997: 234)白人との協調路線を強調した。例えば、彼は選挙区内のウッドヴィル(Woodville)で人種による雇用差別を行う企業に対してボイコット運動を驚くほど成功させていたが、彼は選挙に立候補する直前にボイコット運動を解除していた (★2)。

 エヴァーズが「ワークフェア」によって提案したのは、連邦政府が現在ミシシッピー州の月額50ドルの福祉配給(welfare ration)を受給している人々に対して例えば郡庁舎の清掃のような政府の仕事を行う代わりに週50ドルを支払うというものであった(Franklin 1968)。ミシシッピー州の大半の地域で福祉プログラムには月額50ドルの上限があったが、それは全米平均には程遠く不十分なものであった。彼が「ワークフェア」プログラムと呼ぶものの目玉は、「政府によって保証される週給最低50ドルの仕事」であった(New York Post, February 22, 1968)。決戦投票日前後の動向を取材したカンゾネリ(Canzoneri)の同年7月の報告の中では「ワークフェア」は以下のように記録された。


 通りに戻るとカメラマン達は松葉杖をついた片足の一人の黒人男性の近くに集まる。エヴァーズのプログラムの一つは、彼がワークフェアと呼ぶものである。つまり、得るもののためには皆が働くべきで、福祉は働くことができない人々かどのような仕事も得ることができない人々のためだけにある、と彼は述べていたのだ。今彼はその男性にどれくらいの福祉を受給しているかを尋ね、ハンディキャップを負っているが、もし何とかできる仕事[a job he could handle]があれば進んで働く意思があるかどうか尋ねる。その男性は、進んで働く意思があると――おそらくしぶしぶ――答え、 エヴァーズは即座に『あなたのために間もなく仕事を手にいれてあげますよ。』と応じる。(Canzoneri 1968: 71)


 エヴァーズにとって福祉は、「働くことができない人々」か「どのような仕事をも得ることができない人々」に限定されるべきものであった。逆に、働くことができる者や何らかの仕事に就ける見込みがある者が福祉を受給する場合は、その代わりに働くべきであるというのが彼の労働観であった。

 エヴァーズは人々に「あなたたちは政府の[福祉]小切手のために働くようになるでしょう。ハンディキャップを負っているならば、おそらく出来高払いだが働くようになるでしょう」と述べていた。彼は教育のための連邦資金を獲得しメディケア(高齢者医療保険制度)を拡充することを約束していたが、福祉に対しては保守的であった(Evers and Szanton 1997: 234)。

 他方で彼は当選した際には産業を育成しようと考えていた。例えば、パール河の泥をさらって造船産業を迎え入れ、彼の住まいがあったフェーエットには何ら目ぼしい産業がないので繊維工場を設立しようと考えていた。彼は「実業家が今求めているものは、労働力が単に安価なだけではなく安定している場所だ。人々がお互いにうまくやっていく場所なのだ」(Canzoneri 1968: 71)と述べていた。すなわち、彼は企業を誘致し産業を育成することで、黒人と白人の両方に対して雇用の確保を実現しようとしていたのである。

■2−2. フェーエット市長としての活躍

 1968年の選挙に敗退したエヴァーズは、1969年5月にミシシッピー州フェーエットの市長選挙に立候補し、現職のアレン(Robert J. Allen)を386票対255票で破り当選した。彼はレコンストラクション(南北戦争後の南部の合衆国への再統合期)以来選挙を通して上級官職に就いた初めての黒人となった。

 フェーエットが位置したジェファーソン郡の基幹産業はシェアクロッピング(sharecropping)に基づいた綿花栽培を中心とする農業であったが、1960年代前半から農業の機械化により職を失った黒人の失業問題が深刻となっていた。職を求めて北部や西部へ失業者が移動し、郡の人口は1950年から1970年の間に約2000人減少してエヴァーズが政権に就いたころには約9600人であり、フェーエットの人口も約1600人に減少していた。同郡は全米で4番目に貧困な郡であり、郡の一人当たりの国民所得は1967年で1000ドルだったが、これは全米平均の約1/3であった。また同郡の人口の3/4以上が黒人で、全黒人家族の半分から2/3が生き延びるためになんらかの形で福祉に頼っていた(★3) (Harris 1972: 84-97)。

 エヴァーズは市当局の資金不足を補うために全米に寄付を募り、民間や連邦政府から助成金を獲得した。連邦政府の助成金によって、健康施設や就労訓練施設を含む多目的コミュニティセンターの建設が行われ、通りは舗装され黒人居住区に歩道が建設され、学校制度が改善され新しい警官隊が選ばれた。他方でフォード基金からの40万ドルのローンによってフェーエットに工場が建設され300人の雇用が見込まれるとともに、500人分の雇用が創出されればジェファーソン郡は全米の平均水準に達すると予想された(Campbell and Feagin 1975: 151)。

 エヴァーズ政権は未熟練労働者や半熟練労働者に実質的な雇用を提供するプロジェクトの展開に主眼を置いた (★4)。フェーエットに建設された工場は、第一に、国際電信電話(International Telephone and Telegraph) の子会社(Thompson Industries)が設置した自動車のダッシュボードのための電線収容具(harnesses)を生産する工場であった。同工場は1970年7月にオープンして最終目標は150人の雇用であったが、同年自動車産業のストライキがあり50人の雇用に留まっていた。第二に、聖キャサリン砂利会社(St. Catherine Gravel Company)が1971年3月に開いた小さなコンクリートミキサー工場であり、12〜15人が雇われた。第三に、ミシシッピー州の業務用化学薬品会社によって所有される工場で、企業用洗剤、エアゾール浄化剤、研磨剤、ワックスが生産された。同工場の建設と設備は、地元の開発機関であるジェファーソン郡開発法人(the Jefferson County Improvement Corporation)が利息付のローンで運営したが、同社は民間のフォード基金から提供された40万ドルのローンを用いた。同工場は1971年8月にオープンして2週間毎に新たに5人を雇い、計約100人から125人の雇用が見込まれた(Harris 1972: 67-9)。

■2−3. エヴァーズの福祉観と戦略

 1968年の下院議員選挙及びフェーエットの市長就任後の施策を通して、エヴァーズは雇用の確保を重視するとともにメディケア(高齢者医療保険制度)の拡張や教育プログラムには積極的であったが、福祉には否定的であった。彼は大通りで「戸口をふらつき相互に家族の悪口を言い合って遊び飲酒をする福祉を受給する黒人」を見かけることを嫌悪していた(Evers and Szanton 1997: 254)。彼は市長としての「主目標は、ジェファーソン郡の福祉を一掃することである」とさえ述べたが、そのためには職業訓練と同時に産業の誘致が必要であった(Evers 1971: 9)。実際彼が雇用を創出することで「フェーエットの雇用は約20%増加」し福祉登録件数は削減され、「福祉を受給していたあるいは家事奉公人として週に3ドル稼いでいた黒人女性たちは、これらの工場で週に100ドルを稼ぎ始めた」のだった (★5)(Evers and Szanton 1997: 254)。

 クレインらによれば(Krane and Shaffer 1992: 243-6)、黒人の政治的なエンパワーメントはエヴァーズの1969年のフェーエット市長選挙から始まったのであり、白人から黒人への権力の移譲が相対的に順調だった理由の一つに、彼が人種間の協力を繰り返し主張したことが挙げられている。また「依存を引き起こすものとして福祉を公然と非難」し、「失業者への雇用創出を約束する保守的な候補者を支持」しもするエヴァーズの振る舞いは、「イデオロギー的とういうよりもプラグマティック」なものとみなされている。黒人がマジョリティーである貧弱な地方経済地区で当選した市長は、税収が極めて限られているため積極的に連邦政府の基金を求めることを余儀なくされていた。白人投票や連邦政府の基金の獲得を容易にするために、エヴァーズはプラグマティックに「依存を引き起こすものとして福祉を公然と非難」したのかもしれない。だとすれば福祉を「依存を引き起こすもの」とするエヴァーズの福祉観が形成される前提には何らかの戦略があったはずである。

 コッブによれば、1960年代後半のミシシッピー州デルタ地帯では、連邦政府による福祉政策は白人が公民権運動に対して影響力を行使することができるように作用していた(Cobb 1990)。連邦政府による綿花耕作地の減反政策によって補助金を得た地主は、農業を機械化するとともにシェアクロッパーをサービスが必要な時だけ雇用する賃労働者や「日雇い労働者」に降格させた。また1967年に施行された最低賃金法による黒人の賃金の上昇に伴う解雇もあいまって黒人の失業・貧困が問題になっていた。しかし貧困層への連邦政府によるフードスタンプ・プログラムは地主の管理に委ねられ福祉給付は白人職員による福祉当局によって管理されていた。貧困層のニードと所得の管理を委任されていた白人地主や福祉当局は、選挙登録を行う黒人に対してフードスタンプの受給資格や福祉給付金の受給を不利にするなどの制裁を行い、有権者登録運動に影響力を及ぼしたのであった。

 エヴァーズにとって「公民権から政治への移行は自然で不可避」なものであった。彼にとって黒人問題を解決する手段は「責任ある(responsible)人々――すなわち、『福祉に責任を持つ管理委員会、警察による残虐行為を許容する市長、それを管理運営する保安官、不当に逮捕し不当に判決を下す警察官と治安判事』」を追放することであった(Rugaber, 1968)。だが大半が失業者であるか福祉を受給している黒人を組織し有権者登録・投票運動を展開するためには、白人による経済的報復に対してどのように対抗するかが課題であった (★6)。フェーエットの黒人たちは「お前たちの家や仕事の抵当物の受け戻し権を無効にするぞ」「仕事をクビにするぞ」あるいは「エヴァーズや彼の候補者に投票したらお前たちは福祉給付金を失うことになるぞ」と経済的報復を示唆されたのだった(Evers, 1971: 163)。白人による経済的報復を超克するためには、第一に、産業の誘致と雇用の創出による「雇用の確保」を通して失業・貧困状態から脱却し、第二に、「雇用の確保」を前提にしたうえで福祉から脱却する、という構想を黒人に信頼させまた実行する必要があった (★7)。すなわちエヴァーズには、「雇用の確保」とそれを前提にした福祉からの脱却という構想を提起することによって、白人による経済的報復に対抗しながら黒人の有権者登録・投票運動を展開するという戦略があったのである。


■3. ワークフェア構想の変容――ニクソンの福祉改革案を経て


 結局のところ我々は貧困から脱却する手段を論じることはできない。つまり、我々は貧困から脱却する手段を法で制定することはできないのだ。しかし、この国は貧困からの脱却にむけて徐々に進むことはできる。アメリカが今必要とするのは、これ以上の福祉ではない。「ワークフェア」を強化することこそが必要なのだ。(The Washington Post, August 9, 1969: 1)


 これは1969年8月にニクソン大統領が抜本的な福祉改革案を提起したTV演説の内容を伝えた翌日の朝刊からの引用である。公民権運動のなかから考案された「ワークフェア」であったが社会的インパクトを持つようになったのは、このTV演説で福祉改革案について使用されてからであった。本章では、ニクソンによる福祉改革案の提案と審議過程を経て、「ワークフェア」がどのような意味を持つようになったのかを明らかにする (★8)。

 福祉改革案は当初「家族保障制度(Family Security System)」と呼ばれていたが、Securityがニューディールを連想させるとして、ワーキング・グループは労働を暗示する名称を考案するように求められていた。スピーチライターのサフィア(William Safire)は「ワークフェア」を好んだがワーキング・グループから満場一致で反対されるなど (★9)、名称は演説の前日まで名付けられていなかった(Burke and Burke 1974: 106-8)。頭文字がメジャー・フープル(Major Hoople)の漫画で使われる罵り言葉(Fap)のように聞こえるとしてサフィアは抗議したが、福祉改革案の名称は「家族支援計画(Family Assistance Plan: FAP)」に決定した。熾烈な命名争いに敗れたが「負けず嫌い」な彼は、ニクソンのスピーチのひとくだりに「ワークフェア」を挿入したのであった(Safire 1988)。

 サフィアは1988年に「ワークフェア」という「語を最初に用いたわけではなかったが、それが全米規模で使用され始めるのに影響を及ぼした。それゆえ義父としての誇りを感じる」と自負している(Safire 1988)。また「OEDの増補版の最終巻にそれ[ワークフェア]が収録された際に、新語考案者が他の誰かであったことを知った」(Safire 1988)と述べるように (★10)、サフィアがエヴァーズとは別個に「ワークフェア」という語を考案した可能性も存在する。しかし、エヴァーズが考案して以来「ワークフェア」という語は、ニクソンのFAP案で使用されるまでの約1年7ヶ月の間に、New York Post やNew York Timesでなどの全米紙で数回に及んで用いられている (★11)。さらにエヴァーズがレコンストラクション以来選挙を通して上級官職に就いた初めての黒人であったという話題性などを考えると、エヴァーズの発明した語が何らかのかたちでサフィアに伝わり、それに対して彼が無自覚であったと考えるほうが自然であろう。

 サフィアは「ワークフェア」がニクソンの福祉改革の主導権を明確にするようになることを渇望していた(Peck 2001: 90)。他方で福祉改革案の頭文字FAPは、ロング(Russell Long)上院議員のような批判者から「FAPは失敗(FAP is Flop)!」という嘲笑や、全米福祉権組織(National Welfare Rights Organization)から「FAPを消し去れ(Zap FAP)!」という抗議を招いた。またニクソン自身も法案が審議に委ねられた後で、側近に法案の名前はばかげたもののように聞こえるため好ましくないと打ち明け(Burke and Burke 1974: 109)、「ワークフェア」のほうを好んでいた。「ワークフェア」はスピーチにおいてFAPのやや婉曲的な名称に過ぎなかったが、3日後の連邦議会への大統領教書では大統領によって「福祉から『ワークフェア』への転換、すなわち労働が報われる新しいプログラムへの転換」(Safire 1993: 885)として普及させられたのであった。

 ニクソンが抜本的な福祉改革案を提起した背景には、福祉受給者数の激増とワーキング・プアにおける家族の崩壊という問題があった。すなわち働く世帯主(父親)がいる貧困家族(ワーキング・プア)には福祉の受給資格がないため、母子が受給資格を得るために父親が家族を遺棄することによって生じる家族崩壊が問題となっていたのだ。FAPは家族崩壊を防ぐために既存の対象者に加えて雇用能力があるワーキング・プアに対しても扶助を認めるものであったが、扶助を得たワーキング・プアが働かなくなることが危惧されていた。そのため雇用可能な受給者をいかにして就労させるかが議論の争点となっていた。審議過程で雇用可能な受給者に対する就労要請の強化が注目されるようになったが、これは既存の「要扶養児童家族扶助(Aid to Families with Dependent Children: AFDC)」を改革する1971年タルマッジ改正で対応された。以前は学齢期の児童を持つ母親は就労要請を免除されていたが、タルマッジ改正によって6歳以上の児童を持つ母親は就労可能とみなされ就労要請が課されるようになった。すなわち、FAPによって福祉を受給した際に就労要請を強化するよう議論されたのは主にワーキング・プアであったにもかかわらず、審議過程で雇用可能な受給者の勤労倫理の保持が争点となり、既存の福祉受給者への就労要請が強化されたのであった(小林2006a)。

 結局FAPは1969年に提起されて以来1972年まで2度に渡って審議されたがともに否決されたため、「ワークフェア」はニクソンの新しい福祉改革案を表す名前として普及するには至らなかった。しかし、FAPが1972年に上院財政委員会によって審議された際に、同委員長のロングによって提案された対案(ロング法案)が「ワークフェア」法案と呼ばれ注目を集めることになった。

 ロングによる「ワークフェア」構想とは、扶養児童が6歳未満ではない雇用可能な父親あるいは母親が世帯主の家族はもはやAFDCのもとでの扶助の受給資格を失い、これらの家族の世帯主が民間企業で職に就けない場合は連邦政府が保証する仕事に就く資格を得る、というものであった(Congressional Quarterly, 1972b: 909)。他方でロング法案は、就労要請の観点からは1971年タルマッジ改正とほぼ同内容であったことなどから、FAPと同様否決された。

 「ワークフェア」という語は、ロング法案が注目を集めたため1972年にマスメディアによって「work-for-your-welfare」あるいは「福祉への労働支援(work-relief)アプローチ」に付けた名前として全米で幅広く用いられるようになった。しかし、FAPが否決されて福祉受給者への就労要請が強化されるなかで、1970年代の「ワークフェア」は、「労働の対価という形態のみをとる福祉給付金を暗示する言葉」として理解されるようになった(Nathan 1993: 14-5)。すなわち、「ワークフェア」は、ニクソンの福祉改革案の審議過程を通して、福祉給付金の対価として雇用可能な受給者に対して就労要請を強化することを意味するようになったのである。


■4. 結論

 本稿は、2章でワークフェアという語の起源が公民権運動のなかにあり、同語を考案したチャールズ・エヴァーズの構想を分析することで、ワークフェア構想の起源を明らかにした。すなわち、ワークフェア構想の起源とは、雇用の確保とそれを前提にした福祉からの脱却を目指すという構想であった。その際留意しなければならないのは、エヴァーズの構想には人種差別による黒人の失業・貧困問題に対して、「雇用の確保」によって黒人の有権者登録・投票運動を展開するという戦略があったことである。

 また3章では、ワークフェアという語が、スピーチライターのサフィアを経て連邦政府の構想に反映される過程でどのように変容したのかを分析した。ワークフェアは、ニクソンの福祉改革案の提案時には「婉曲的な名称」に過ぎなかったにもかかわらず、同案の審議過程と否決を経て、「労働の対価という形態のみをとる福祉給付金を暗示する言葉」を意味するようになった。すなわちワークフェア構想は、「雇用の確保」を通して失業・貧困問題を解決しようとするものから、福祉給付金の対価として雇用可能な受給者に対して就労要請を強化することで、福祉ではなく個人の自助努力(を支援する政策)によって失業・貧困問題の解決を図るものへと変容したのである。

 本稿では、ワークフェアという語がチャールズ・エヴァーズからどのようにしてサフィア(あるいは連邦政府の政策)に伝わったのかという点は明らかにできなかった。しかし、チャールズ・エヴァーズが南部公民権運動の英雄であるメドガー・エヴァーズの兄であり、NAACPのミシシッピー州支部の長官であり、レコンストラクション以来選挙を通して上級官職に就いた初めての黒人であった点を考慮すると、彼の発言や構想が連邦政府の施策に与える影響力は少なくはなかったはずである (★12)。

 実際、1976年の上下両院合同経済委員会の経済成長に関する小委員会の公聴会で、エヴァーズはワークフェアという語を用いて、同経済委員会委員長のベンツェン(Hon. Lloyd M. Bentsen, Jr.)に対して説得的に主張を展開した(Joint Economic Committee 1976: 12-5)。エヴァーズは、連邦政府の官僚的で非効率的な福祉プログラムひいては予算浪費を非難しながら、失業・貧困問題に横たわる人種問題の解決を明確に訴えた。これに対してベンツェンは職業訓練や職業教育の必要性を認めるものの、彼の関心は福祉受給者が即座に就労し福祉から脱却することに向けられていた。なぜなら、ベンツェンは、ワークフェアを「人々を福祉から脱却するよう奨励し、人々に福祉を脱却するインセンティブを与える」ものとして捉え、ワークフェアの実施を支持してきたからであった。

 エヴァーズがワークフェアという語を人種問題に起因する失業・貧困問題を「雇用の確保」によって解決するために用いたのに対して、連邦政府は福祉受給者数の増加ひいては「福祉依存」という問題を解決するために同語を用いた。すなわち、ワークフェアの変容過程において、人種問題ならびに福祉からの脱却のための前提である「雇用の確保」は後景化し、受給者の就労を通した福祉からの脱却のみに焦点があたるようになったのである。

 本稿ではワークフェアをその語の起源に遡って考察してきたが、現代のワークフェアを巡る多様な議論や政策展開にもたらす示唆として以下のことを指摘できる。福祉受給者に就労や就労を通した福祉からの脱却を要請したとしても、雇用に空きがないのであれば、受給者の就労は困難である。「雇用の確保」を前提にして福祉からの脱却が目指されるべきであり、雇用が確保されないまま職業訓練や職業教育などの就労支援が行われたとしても、受給者に負荷をかける政策となる。さらには(十分な)就労支援が行われたにもかかわらず受給者が職に就けないのは、(就労支援が十分であればあるほど)受給者の行動様式に転化されかねない (★13)。しかし、失業者・貧困者が福祉を受給する背景には失業・貧困問題があるのであって、福祉を受給すること自体が問題なのではない。またアメリカ社会に根強く存在する人種問題のように失業・貧困問題は構造的要因に起因するのであって、失業者・貧困者や福祉受給者の行動様式に起因するのではない。「雇用の確保」を実現する雇用政策の実施が困難ならば、失業・貧困問題に対して失業・貧困問題を個人の自助努力(とそれを支援する政策)で対応するのではなく、改めて所得保障の持つ意義が問われるべきである。

 今後の研究課題は、雇用政策と公的扶助政策の双方の観点から連邦政府が公民権運動の要求にどのように対応したのかを分析することである (★14)。この分析によって、エヴァーズがワークフェアを考案した背景や公民権運動から議会政治に移行していった要因、さらにはワークフェア構想の起源と変容が明瞭になるであろう。


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[注]

★1 OEDによれば、「ワークフェア」の初出はCanzoneri (1968)とされているが、それに約5ヶ月先立って、"Evers Sees Victory in Mississippi Race"という見出しの記事(New York Post, February 22, 1968)が存在する。ニューヨーク市ショーンバーグ黒人文化研究所が収集した「全米有色人地位向上協会(the National Association for the Advancement of Colored People: NAACP)」のエヴァーズに関するクリッピングファイルを見る限りでは、この記事が初出と判断される。

★2 エヴァーズはウッドヴィルの他にもナッチェ(Natchez)やフェーエット(Fayette)、ポートギブソン(Port Gibson)などでボイコットを実施していた。なかでも1965年から開始されたナッチェでのボイコットは、「自警団組織によって支援される経済的ボイコットというパラダイム」を築き、白人から譲歩を勝ち取るために決定的に重要な戦略として州全体に普及していった(Umoja 2002)。

★3 経済機会局(the Office of Economic Opportunity)の貧困ガイドラインによれば、

1969年には、ジェファーソン郡の1795人が公的扶助を受給し、そのうち 1057人は要扶養児童扶助(Aid to Dependent Children)プログラムのもとで扶助を受給する家族に属していた。言い換えると、郡の貧困層の2/5未満が公的扶助を受給していた。同時に4463 人が農業省による選挙区の食料分配プログラムに参加した。これは1968年の間に維持された分配率で毎年一人につき80ドルを提供した。(Harris 1972: 84-95)


★4 他方でエヴァーズは市長になる前に、ジョンソン政権に職業訓練センターのための基金の申請を行っていた。同センターの設立のために経済開発局(Economic Development Administration: EDA)の助成金から24万2千ドルが支払われ、地方政府の負担分の6万ドルはフォード基金によって提供された。また機械や設備のために1962年施行の「人材開発訓練法(Manpower Development and Training Act: MDTA)」に基づき労働省が20万ドルを提供し、同センターは1970年1月6日に完成した。初年度は175人のハードコアな失業者(男性と女性)が参加したが、彼/女らのほとんど全員が黒人で木工技術、板金工、自動車修理、事務的技能の職のための訓練が行われた。1971年4月には板金工として訓練された7人の若い男性が、最低賃金時給3.04ドルで雇われた(Harris 1972: 126-9)。

★5 この点に関して評価するためには、ジェンダーの観点からの分析が別途必要となる。例えば、福祉権運動のなかで保証所得(福祉)への要望は男女で異なり、男性が雇用機会の欠如を強調したのに対して、女性は母親業を根拠として保証所得を要求したのであった(Nadasen 2005: 158)。本稿では扱えないが今後の課題としたい。

★6 ミシシッピー州は全米でも特に人種差別が過激な地域であり、クー・クルックス・クラン(Ku Klux Klan)や白人至上主義者によって多くの公民権運動の指導者や活動家が殺害されている。そのため白人による報復は経済的報復に限定されるわけではないが、この点についての考察は上述したボイコット運動が持つ意義の分析と合わせて今後の課題としたい。公民権運動とも関わって「暴力」に抵抗するための「反暴力」の可能性を考察したものとして、酒井(2004)を参照せよ。

★7 市長就任後のエヴァーズによる政策をフェーエットの黒人がどのように捉えているかを調査したインタビューによれば、黒人の大半はエヴァーズが黒人と白人を平等に扱うと考えているが、雇用機会の創出によって貧困者のなかでも特に黒人が助けられてきたと理解していた(Morrison and Huang 1973: 25)。またエヴァーズは1971年にはミシシッピー州の州知事に立候補しており、選挙には敗退するものの黒人の有権者登録数を増加させるなど公民権運動に寄与した(Berry 1978)。

★8 本稿では、「ワークフェア」がどのような意味を持つようになったのかを考察することに限定し、ニクソンの福祉改革案の作成過程ならびに審議過程の詳細についての分析は扱わない。それらの詳細については、Bowler(1974)、Burke and Burke(1974)、Congressional Quarterly(1968-72b)、Moynihan(1973)を参照せよ。また邦語文献として、根岸(2004)や小林(2006a)を参照せよ。

★9 例えば、FAPの詳細を考案したモーガン(Ed Morgan)は、偉大な構想が単に宣伝のための言葉である「ワークフェア」よって平凡化されるのを危惧した(Safire 1988)。

★10 全4巻の増補版は1972年から1986年にかけて出版されたが、SeからZまでを集めた最終巻は1986年に出版された(Burdhfield 1986)。

★11 注1で述べたショーンバーグ黒人文化研究所のクリッピングファイルを参照。

★12 例えばエヴァーズは、様々な政治家達(ジョンソン大統領やレーガン大統領、ロバート・ケネディ上院議員、ジョージ・ウォーレス知事を含む)に対して、非公式のアドヴァイザーとして活躍した(Wormser 2002)。

★13 実際1980年代後半以降の福祉改革のなかでワークフェアは受給者個人の「態度」矯正を行うものへと変容していくことになった(小林2006b)。

★14 ケネディ、ジョンソン、ニクソン政権期のAFDC制度における施策が受給者にもたらした効果を「就労支援と所得保障の結合」という観点から分析したものとして、小林(2005)の特に第2章を参照せよ。他方で、本稿ではエヴァーズの施策によって就労可能であるが就労が困難な者や就労したくない者(例えば、福祉を受給しながら母親業を行いたいシングルマザー)がどのような影響を受けたのかは明らかにできなかった。連邦政府とエヴァーズの施策に共通してシングルマザーへのショービニズムがあったのかどうかという点も含めて、今後の検討課題としたい。




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[文献]

◆Berry, Jason, 1978, Amazing Grace: With Charles Evers in Mississippi, 2nd ed, New York: Saturday Review Press.
◆Bowler, M. Kenneth, 1974, The Nixon Guaranteed Income Proposal: Substance and Process in Policy Change, Cambridge: Ballinger Publishing Company.
◆Burdhfield, R. W., 1986, A Supplement to the Oxford English Dictionary, Volume4, Se-Z, Oxford: Clarendon Press.
◆Burke, Vincent J. and Vee Burke, 1974, Nixon's Good Deed: Welfare Reform, Columbia University Press.
◆Campbell, David and Joe R. Feagin, 1975, "Black Politics in the South: A Descriptive Analysis," The Journal of Politics, 37(1): 129-62.
◆Canzoneri, Robert, 1968, "Charles Evers: Mississippi's Representative Man?," Harper's Magazine, 237(1418): 67-74.
◆Cobb, James C., 1990, ""Somebody Done Nailed Us on the Cross": Federal Farm and Welfare Policy and the Civil Rights Movement in the Mississippi Delta," The Journal of American History, 77(3): 912-36.
◆Congressional Quarterly, 1968, Congressional Quarterly Almanac: 90th Congress 1st Session....1967, 23.
◆――――, 1970, Congressional Quarterly Almanac: 91st Congress 1st Session....1969, 25.
◆――――, 1971, Congressional Quarterly Almanac: 91st Congress 2nd Session....1970, 26.
◆――――, 1972a, Congressional Quarterly Almanac: 92nd Congress 1st Session....1971, 27.
◆――――, 1972b, Congressional Quarterly Almanac: 92nd Congress 2nd Session....1972, 28.
◆Dolowitz, David P., 1998, Learning From America: Policy Transfer and the Development of the British Workfare State, Brighton: Sussex Academic Press.
◆Evers, Charles, 1971, Evers, edited and with an Introduction by Grace Halsell, New York and Cleveland: The World Publishing Company.
◆Evers, Charles and Andrew Szanton, 1997, Have No Fear: Charles Evers Story, New York: John Wiley & Sons Inc.
◆Franklin, Ben A., 1968, "Subpoena Calls Evers from His District on Last Day of Mississippi Campaign," The New York Times, March 11, 1968.
◆Handler, Joel F., 2004, Social Citizenship and Workfare in the United States and Western Europe: The Paradox of Inclusion, Cambridge: Cambridge University Press.
◆Harris, Johnny L., 1972, A Historical Analysis of Educational, Economic and Political Changes in Fayette, Mississippi from 1954 to 1971, A dissertation submitted to the Department of Adult Education in partial fulfillment of the requirements for the degree of Doctor of Philosophy, The Florida State University College of Education.
◆Joint Economic Committee, 1976, Mississippi Economic Growth Programs: Hearing before the Subcommittee on Economic Growth of the Joint Economic Committee, Congress of the United States, Ninety-fourth Congress, First Session.
◆小林勇人,2005,「ワークフェア構想の起源と変容――アメリカのAFDC制度をもとに」(立命館大学大学院先端総合学術研究科博士予備論文).
◆――――, 2006a, 「初期ワークフェア構想の帰結――就労要請の強化による福祉の縮小」
◆『コア・エシックス』2: 103-14.
◆――――,2006b,「カリフォルニア州GAINプログラムの再検討――ワークフェア政策の評価にむけて」『社会政策研究』6: 165-83.
◆Krane, Dale and Stephen D. Shaffer, 1992, Mississippi Government & Politics: Modernizers Versus Traditionalists, Lincoln and London: University of Nebraska Press.
◆Lodemel, Ivar and Heather Trickey, 2000, "A New Contract for Social Assistance," Ivar Lodemel and Heather Trickey eds., An Offer You Can Refuse: Workfare in International Perspective, Bristol: The Policy Press, 1-39.
◆宮本太郎,2005,「ソーシャル・アクティベーション――自立困難な時代の福祉転換(特集:『若い世代』に起こっていること, ワークフェア社会にむけて―これからの生き方、働き方)」『NIRA政4策研究』18(4): 1-22.
◆Morrison, KC and Joe C. Huang, 1973, "The Transfer of Power in a Mississippi Town," Growth and Change, 4(2): 25-9.
◆Moynihan, Daniel P., 1973, The Politics of a Guaranteed Income: The Nixon Administration and the Family Assistance Plan, New York: Random House.
◆Nadasen, Premilla, 2005, Welfare Warriors: The Welfare Rights Movement in the United States, New York: Routledge.
◆Nathan, Richard P., 1993, Turning Promises into Performance: The Management Challenge of Implementing Workfare, New York: Columbia University Press.
◆根岸毅宏,2004,「ニクソン政権のFAP法案とアメリカの公的扶助制度――1996年福祉改革に至る歴史的背景として」『国学院大学経済学』52(3-4): 417-72.
◆Peck, Jamie, 2001, Workfare states, New York: The Guilford Press.
◆Rugaber, Walter, 1968, "We Can't Cuss White People Any More. It's in Our Hands Now," The New York Times Magazine.
◆Safire, William, 1988, "Coiner's Corner," The New York Times Magazine, July 17, 1988: A8.
◆――――, 1993, Safire's New Political Dictionary: The Definitive Guide to the New Language of Politics, New York: Random House.
◆酒井隆史,2004,『暴力の哲学』河出書房新社.
◆Simpson, J. A. and E. S. C. Weiner prepared, 1989, The Oxford English Dictionary, Second Edition, Volume20, Wave-Zyxt, Bibliography, Oxford: Clarendon Press, New York: Oxford University Press.
◆Umoja, Akinyele Omowale, 2002, ""We will Shoot Back": The Natchez Model and Paramilitary Organization in the Mississippi Freedom Movement," Journal of Black Studies, 32(3): 271-94.
◆Wormser, Richard, 2002, "The Rise and Fall of Jim Crow, Jim Crow Stories, People, Charles Evers"(http://www.pbs.org/wnet/jimcrow/stories_people_evers.html, January 9, 2007).



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[正誤表]

★134ページ、2行目
「州議会」 → 「連邦議会」

★137ページ、8行目
「New York Timesでなどの」 → 「New York Timesなどの」



[言及・紹介]

◆ 20130730 宮本太郎 『社会的包摂の政治学――自立を承認をめぐる政治対抗』ミネルヴァ書房.p79

◆ 20081025 山森亮 「社会政策における公正――福祉国家の規範理論再論」(特集 社会政策研究に求められるもの――公正な社会への政策)社会政策学会編『社会政策』1(1): 70-82.

◆ 20061201 立岩真也 「ワークフェア、自立支援」『現代思想』34(14): 8-19


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◇English

[Title] The Origin and Transformation of the Idea of Workfare: From Charles Evers to Richard Nixon

[Name] KOBAYASHI, Hayato

[Abstract]

 This article unveils the origin and development of the idea of workfare in the late 1960's and early 1970's. "Workfare" was invented by Charles Evers, a Civil Rights leader, who succeeded in organizing a boycott in Mississippi, but then disbanded it to run for Congress in 1968. During the campaign, one of the programs he proposed was workfare. Although Evers lost the Congressional campaign, he later won the mayoral election in Fayette, Mississippi in 1969. After becoming the mayor, he attracted companies, created employment, and reduced the number of public assistance recipients. His political strategy was to increase voter registration by black people without scaring white people. He used workfare to help black people, because white people did not like welfare. The word workfare soon became nationally famous when President Nixon used it in TV speech to propose welfare reform plan in August 1969. Through the process in which the plan was deliberated and rejected in 1972, the effectiveness of welfare in moving recipients to employment came to be questioned. As a result, the idea of workfare was redefined in the early 1970's to mean that welfare recipients must work in return for their benefits.

[Keywords] Workfare, Charles Evers, Civil Rights Movement, Mississippi, Nixon



UP:20070609 REV:20081106, 20121117, 20140122, 20230830
初期ワークフェア構想  ◇ワークフェア文献表  ◇『コア・エシックス』

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