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境界線上の失踪

小林 勇人 20110525
『生存学』4: 118-24.
生活書院


*以下「草稿」からの抜粋です。御関心のある方は、お買い求め頂ければ幸いです。



「そこは、どこですか?」

 2010年7月22日、犬島。
 
 瀬戸内海は岡山市の離島、人口約100人の小さな島、それが犬島だ。日本のエーゲ海と呼ばれ映画のロケ地にもなる牛窓の近くにある。牛窓を少し南西に進んだ宝伝の港からフェリーで10分だ。そんな島にわざわざ何をしに行くのかといえば、維新派という劇団の舞台を観に行くのだ。

 維新派の舞台は、「移民」や「漂流」をキーワードに、「ヂャンヂャン☆オペラ」と呼ばれる独自の表現スタイルで繰り広げられる。セリフのほとんどは単語に解体され、変拍子のリズムにのせて歌うように発話され、日本各地の方言や外国語を取り入れた混生言語が鳴り響く。また振り付けも日本人の体型に合わせた独特のもので、変拍子に合わせた30人以上の役者による同時多発的動きが、天体の煌きを感じさせる。そして、自分たちで巨大な野外劇場を作るというのも大きな魅力となっている。

 それにしても暑い。この夏の、不条理な暑さがもたらした思考の産物か、それとも、学会報告で訪れたブラジル滞在がもたらした身軽さからか、京都から小型のモーターサイクルで来てしまっている。下道をひた走り、暑さと疲労で朦朧とするなか、劇場が近づくに連れて、何だか懐かしい人たちに再会しているような錯覚に陥った。

 牛窓の街道で工事のため交通整理をしていたおっちゃん。宝伝への道を尋ねると、優しく微笑みながら教えてくれたのだが、どうにもこうにもその牛窓弁に、高校時代の牛窓出身の友達を思い出さずにはいられない。あるいは、宝伝港の有料駐輪場で管理人の爺ちゃん。世間話をすると、その人情が滲みでるような方言に、死んだ広島の爺ちゃんが蘇ったのかとさえ思ってしまう。フェリーの待合所では、所ジョージのように脱力した船長が、昔島に住んでいた二人のおばちゃんと、島の今昔や劇の評判について話をしている。

 義理の叔父ちゃんが所ジョージに似ていたことを思い出しながら、海を渡る頃には、何だか現実感が薄れていく。ひょっとしたら、交通整理員だとか管理人だとか船長だとか、みんな演じているだけなんじゃないかという気がしてきて、ちょっと笑ってしまう。だが笑ってしまった後で、ふと、帰って来れるのか、少し心配になる。

 劇場は、島の精錬所跡地に建設されていた。廃墟の煉瓦が青空に映える様子は、アウシュビッツ強制収容所の地下室から見た地上のすがすがしさを思い出させる。開演は夕方だったが、公演の進行に連れて、セミの鳴き声が遠のき、精錬所の煙突が黒く長い陰に変わっていく。涼しい風が吹き、耳をすませば、遠くの波の音が聞こえてきそうだ。煙突を尻目に太陽が沈んでいき、気がつくと、月が出ていた。

 今回の公演は、「<彼>と旅をする20世紀三部作」の最後。一作目では、ブラジルへの日本人移民が南米を舞台に転々として最後にニューヨークを目指す。二作目では、第二次世界大戦中の東欧を舞台とし戦災孤児たちの生き様が演じられる。そして、この三作目では、アジアの島々が舞台となって漂流する日本人とアジアの人々の交流が繰り広げられている。舞台上に設けられた複数の場所で人々の生活や時間がそれぞれ流れていくが、「そこはどこですか?」というかけ声とともに、時空を越えた交流が生じる。

 舞台上の<彼>にはどこか見覚えがあった。真っ白に塗られた顔が病弱で神経質な印象を与える。そして、あの帽子に、あのトランク。そう、カフカだ。確か、『失踪者』に出てくるカールのイメージにぴったりだ。だけど『失踪者』は未完の作品だからか、思い出そうとすると、いつも夢のようにぼやけていってしまう。


 1912年に書き始められた『失踪者』。主人公で十七歳のドイツ人カール・ロスマンは、三十五歳近くの女中ヨハンナに「誘惑」され、彼女に子どもができてしまう。その結果、両親はカールをプラハからアメリカに放逐し、カールは見知らぬ土地を彷徨う羽目になる。だが「誘惑」の真相は、ヨハンナがカールを「自分の小部屋につれこんで鍵をかけ」、「自分から裸になり、彼女がカールの服をぬがせた」のであり、カールは、「ただ居心地が悪」く「泣きながら自分のベッドへもどった」というものだった。

 人が子を産むと親になり、親はその子に対して扶養義務を持つことになる。しかし、まだ若く未成年のうちに子を産むと、その義務が誰に生じるのかは微妙になる。ましてや性行為への合意が不明瞭であれば、なおさらである。十七歳のカールを子どもと考えると、カールの両親にはカールの子に扶養義務が生じるからだろう、貧しい両親は「養育費の支払い」や「悪い噂」を避けるためカールを放逐したのだった。だが、十七歳のカールを大人と考えると、カールは我が子とその母親を棄てて失踪したことになる。すなわち『失踪者』は、二重の意味で、親が子を捨てる話なのだ。

 よるべのない土地でくたばっていたかもしれないカールだが、ヨハンナの機転がきいたおかげで、アメリカに移住し上院議員にまで出世した伯父に養われることになる。カールは、ニューヨーク港で伯父と対面した際に、彼女の機転に対して、「心あたたまる行為であって、いずれ何らかの返礼をしてやらなくてはならない」と思う。だがカールが彼女を省みるのは後にも先にもこの場面しかない。ましてや、我が子には全くの無関心であり、一度も省みられることはない。


「そこはどこですか?」

「ニューヨーク、別荘、暗闇、ランタン、礼拝堂、ペー、ッペケペー、ッペケペー」

 伯父の友達ポランダー氏から招待されたカールは、彼の別荘を訪れる。だが、伯父達の共通の友達グリーン氏も突然現れ、彼の言動には気分が悪くなる。夕食後、ポランダー氏の娘クララに広い別荘の中を案内してもらうが、プライドを傷つけられて喧嘩になり、羽交い絞めにされ「屈辱」を味わわされる。

 カールは、ポランダー氏にすぐにも帰りたいと告げ、自分が英語も不完全であり、教育も中途でやめ、アメリカのことは何も知らず赤ん坊も同然であり、いかに伯父におぶさっているか、だから当然「服従する義務」があることを説き、今回の泊りがけの遠出に乗り気ではなかった伯父に対して、自分が我を通して来てしまったことを述べる。

 ところが、グリーン氏が伯父から預かっていた手紙を手渡され、「原理」信奉者である伯父の「原理」に歯向かった最初の人間として、すなわち、伯父の意思に反し自分の意思によって伯父のもとを離れたのだから「自立」した人間として、カールは絶縁され放逐されてしまう。


「そこは、どこですか?」

「ラムゼス、ホテル・オクシデンタル、調理主任の部屋、トーッヤ、一番小さな秘書の部屋、トーッヤ、トーッヤ」

 伯父に放逐された後、カールは安宿で二人組の風来坊と知り合う。機械修理工と称する二人は、長く仕事にあぶれており、歩いて二日程の隣町へ仕事を求めて向かうところだった。カールも同行して仕事を世話してもらい、給金は三人が同じ勘定に入れ、稼ぎはちがっても仲間うちでは平等にすることになった。だが道中、飲み食いはカールの支払いで、使いっぱしりをさせられ、トランクから物も盗まれ、カールは二人に愛想を尽かして別れる。平等な仲間だと言いつつ、風来坊たちは、いくらかお金のあるカールに、たかっていたようなものだった。


 カールは、使いっぱしりの際にホテルで調理主任と親しくなる。主任は、ウィーン出身の五十歳の女性であり、同郷のよしみで親切にしてくれる。その晩は彼女の部屋に泊めてもらい、次の日からホテルのエレベーターボーイの仕事を紹介してもらうことになった。部屋には古いヨーロッパの写真が立てかけてあり、娘や若い兵士が写っていた。主任は部屋の一つに十八歳のテレーゼを住まわせているが、彼女も同郷のよしみで主任に助けられ秘書として抜擢されていた。アメリカで身寄りもなく苦労してきた主任にとって、同郷のテレーゼやカールは娘や息子みたいなものなのだろう。

 ある晩、カールはテレーゼの部屋を訪れた際に、彼女の生い立ちを聞かされる。彼女は私生児で、父親は建築現場の監督だった。父親はバルト海沿岸地域から彼女と母親をアメリカへ呼びよせたが、それで「義務を果たした」つもりになったのか、そのあとすぐ何も言わずカナダに行ってしまう。「ニューヨーク東部の巨大な貧民街」に残された母子は、母の稼ぎで生活を凌ぐ。だが二日間仕事にあぶれた冬の夜に、母は、小銭すらなく、寝ぐらを探しながら、五歳のテレーザを連れて一晩中歩き回る。朝になり、仕事にありつける見込みのあった建築現場にむかうと、テレーザの見ている目の前で母は、高く組み上げられた建物の骨組みの頂上まで上り、行き止まりを踏み越えて、転落し、死んでしまう。

 この父親の失踪とそれに伴う母親の非業の死という話を聞かされても、カールが自分の残してきた我が子やヨハンナに胸を痛めることはない。折にふれて両親のことを思い出すのに対して、彼女たちのことは忘却されているかのようだ。


「そこは、どこですか?」

「大きな門衛室、テー、ガラスの壁面、ター、黒いカーテン、テー、六人の門衛、ター、大男の門衛主任、テー、着古された服、ター」

 二人組の風来坊のようにはなりたくないという思いから、カールは一生懸命働く。だが「仲間」は彼を放ってはくれない。二人組の一人ロビンソンが酔っ払って仕事中の彼を訪ねてきて、最近生活の調子がよいから戻ってこないかと持ちかける。断ると金をせびってきたが、酔っ払っているため追い払うこともできず、とりあえず共同寝室に運んで眠らせる。だが、持ち場を離れたことがボーイ長にばれてクビを言い渡される。そのうえに、ロビンソンが大暴れし始めたせいで、カールがホテルの金を盗んでロビンソンに渡す手筈だったと誤解されてしまう。

 調理主任が助け舟を出してくれ、ボーイ長に弁明するカールだが、うまくいかず、「何を言っても、すぐさまべつの意味にとられてしまう。善悪の判断が、すべて相手方にあるのであれば、何を言おうとムダなことだ」と、あきらめてしまう。結局、調理主任から知人の家を紹介してもらい、ホテルを去ることになるが、それは泥棒として追い出されることを意味した。「不正」「汚辱」を感じながら立ち去ろうとするカールに、以前から敵意を抱いていた門衛主任が、追い討ちをかけるように暴力を加える。

 門衛主任から身なりを指摘され、カールは、五ヶ月前に新調した服が、着古され、あちこちほつれてシミだらけになっていることに気がつく。それとともに自分が「十分に苦しんだ」こと、そして、その「すべてが無意味な苦しみ」だったことに気がつく。一生懸命仕事をしたにもかかわらず、「次のもっとよい職場」につながることはなく、逆に泥棒の嫌疑をかけられ追い出されているのだ。「これ以上は、いやだ」と思ったカールは、隙をついて走って逃げ出す。調理主任からの紹介用の名刺が入っていた上着や、パスポートはもちろんトランクなどの所持品など、いっさいを置き去りにし、ホテルの監視態勢をくぐって疾走する。


「そこは、どこですか?」

「かなり離れた郊外、アパート、最上階、トトタン、トタン、バルコニー、トトタン、トタン、紫色のナイトガウン」

 カールは、ロビンソンを連れて、もう一人の風来坊ドラマルシュが待つ郊外のアパートへ向かう。久しぶりに会ったドラマルシュは、見違えるように変わっていた。顔は誇らしげで威風をただよわせ、両眼は光り、紫色のナイトガウンを着ている。カールには、真っ昼間の通りで、なぜ「ガウン姿」で歩いているのか訳が分からない。だが、通りかかった警官が嫌疑をかけたのは、上着のない「シャツ姿」で「みすぼらしいなり」をしたカールのほうだった。警官の質問に上手く答えられないカールは、「身に受けた不正を話して、迫ってくる不正を押しとどめるのは絶望的だ」「自分の正義が無力だ」として、逃げ出したいと強く思い、隙をついて、その場から走り出してしまう。

 追いかけてくる警官から疾走するカールは、ドラマルシュに助けられ、彼らのアパートでかくまわれるように暮らすことになる。ドラマルシュは歌手ブルネルダのヒモになることに成功していた。彼女は金持ちの亭主と別れて財産をもっていたが、とても肥っていて、脚が通風のためか、靴下を自分で抜き取ることさえできない。そこでドラマルシュが身の回りの世話をしているが、彼女は神経質かつ気まぐれのわがままで、あれやこれやと用事を言いつける。それらの雑用をするのにロビンソンが必要とされていた。

 だが生活の大半をバルコニーで過ごすよう命じられるロビンソンは身も心も蝕まれている。バルコニーで一緒に過ごすカールに「おれはよけい者なんだ。いつも犬みたいに扱われていると、いずれ自分でも犬のような気がする」と愚痴る。それならなぜ出ていかないのか尋ねると、ブルネルダに惚れていることをほのめかす。泣きじゃくるロビンソンに、カールは、「ここのは仕事じゃない、奴隷」だと述べ、「召使」をやめれば元気になると忠告するが、手伝うよう頼まれてしまう。この「おぞましい仕事」に比べれば、「ほかのどんな働き口だっていいし、たとえ何にもありつけないとしても、ここにいるよりはまし」と思うカールだが、逆に、他に働き口が見つかるはずがない、世の中を甘く見るな、と反論されてしまう。

「このままここにいると、同じ仲間になってしまう」と考えたカールは、隙をついて脱走を試みる。しかし、アパートの扉には錠がしてあり鍵がかかっていた。錠をこじあけようとしているところをドラマルシュに見つかり、全力で闘うものの、放り投げられ痛めつけられ失神する。


「そこは、どこですか?」

「真夜中のバルコニー、小さなテーブル、ガラカタ、本の壁、ガラカタガラカタ、ガラカタ、明かり、パーポーポー、パー、ポーポー、ブラック珈琲」

 真夜中に意識を取り戻したカールは、バルコニーで学生と知り合い、召使の境遇がイヤでならないと相談する。学生は、召使は主人を選り好みできないと諭し、あまりの低賃金に腹を立てながらもデパートで売り子をしている自分を参考にするよう答える。数年前学生は、昼も夜も学生をしていたが、満足に食べることもできず、古く汚い住居に住み、ひどすぎる身なりをしていた。昼は働き夜に勉強する今は、眠る時間を確保できず、昼も夜もブラック珈琲を飲んでいて、職場では《ブラック様》というあだ名で呼ばれている。

 「いつ学問が終わるの」か尋ねると、学生は「いつだろうねえ」とうなだれる。カールが自分も「勉強をしたかった」と告げると、学生は「勉強をやめにしたのをよろこぶといい。ぼくがこの数年つづけているのは、しめくくりがつかないだけのことだ。よろこびはほとんどないし、将来の見込みとなれば、もっとない。見通しとなればひどいもんだ! アメリカというところには、あやしげな博士様がうじゃうじゃいる」と答える。

 そこでカールは働き口を紹介してくれないか頼んでみる。すると学生は、今の仕事を見つけることができたのが自分にとって「人生最大の成功」であり、「学問か、勤め口かときかれたら、むろん、勤め口を選ぶ」と述べ、働き口を見つけるのはとても難しいから、ドラマルシュのもとに留まるよう忠告するのだった。

 結局カールは、警察に目をつけられていることもあり、世間のことやドラマルシュのこともよく知っている学生の忠告をききいれ、召使を引き受けることにする。そして、それを足場にしながら働き口を見つける機会を待ち、いつか仕事につけたら、「力を分散させている」学生を反面教師に、昼も夜も働こうと決意するのだった。あたかも、学生と賃労働者の境界線上に留まる彼に、自分の境遇を重ね合わせるかのように。


 カールを取り巻く状況は、まるで様々な線に沿って紙が何重にも折り畳まれていくかのように、狭められ、窮屈に、そしてハードになっていく。子どもと大人の境界線(十七歳という年齢)、扶養される者と扶養する者の境界線(自分の両親と我が子)、罪なき者と罪ある者の境界線(泥棒の嫌疑)、部屋の内と外の境界線(バルコニー)、学ぶ者と働く者の境界線(《ブラック様》)。そして、カールはそれらの境界線を越えていくのではなく、かといって引き返すこともできない。あくまで境界線上に留まりながら、境界線上を横滑りしていく。

 大人になるわけではないが、子どもに戻ることもできない。扶養者になるわけではないが、被扶養者に戻ることもできない。罪を犯すわけではないが、罪なき者としてホテルに戻ることもできない。部屋から外に出て行くのではないが、かといって内に入れてもらえるわけでもない。賃労働者になるわけではないが、学生に戻ることもできない。こうした入り組んだ状況のなかで、カールは自分でももうどこにいるのか分からなくなってしまう。あるいは、そうした状況に慣れるとともに忘れ去っていく。

 『失踪者』は未完の作品だが、最後に断片が残っている。そこでカールはオクラホマ劇場に雇われ、列車で二日二晩かけてアメリカの大陸内部へ入っていく。おそらくこの断片でカールは、現世と常世の境に置かれることになるのだろう。あたかも死の間際に走馬灯のように記憶が蘇るように、カールは懐かしい人々に再会する。

 面接会場で、奇遇にもかつての女友達に再会し、故郷の町の学校教師のそっくりさんに出会うが、もはや両親のことを想起することも、故郷を懐かしがることもない。そして、採用直後には、エレベーターボーイの仲間に再会し、調理主任やテレーゼのことを気にかける。だがカールは、「なんといろんな思い出があることだ!」と感嘆するように、彼に再会するまで思い出すことがなかったほど、ホテルの仲間たちのことを忘れ去っている。面接の際に本名を述べることを躊躇うカールは、以前の職場での通り名である「ネグロ」と答えたが、自分の本名をも忘れ去るのかもしれない。

 しかし、この「失踪」経験の忘却は、カールに限られるわけではない。テレーザの父は、彼女と母を残して失踪した。だが仮に彼が自分の行方や近況を手紙などで知らせたいと思っても、「人の行方など、まるきりつかみようがない」巨大な貧民街では、不可能であった。すなわち、テレーザと母も、ヨーロッパを離れてアメリカにやってきた後、失踪しているのだ。ウィーン出身の調理主任や、ドイツ語圏の名前を持つ学生もまた、失踪中なのかもしれない。ましてや二人組の風来坊、自称アイルランド人のロビンソンとフランス人のドラマルシュは、まぎれもない失踪者である。そして、皆、自分たちが失踪しているとは思っていない。

 このように『失踪者』は、主人公カールに限らず、アメリカに渡航者として移り住み、失踪していった者たちの物語であり、しかも「失踪者」たちの「失踪」経験の忘却のうちに<アメリカ>が成り立っていることを「開示=暴露」する小説といえる。そして、あたかも、道が線路によって踏み切られていくように、カールは<アメリカ>の境界線上を列車で運ばれ、消え去っていくのだ。


「そこは、どこですか?」

 公演が終盤に向かうに連れて、舞台上の誰も今自分たちがどこにいるのかうまく答えられなくなっている。折り畳まれた紙が一度に広げられると、そこに付着していた一点のシミは紙の随所に拡散されるように、そこには無数のカールがいる。もしかしたら、ここはオクラホマ劇場なのかもしれない。南米から、東欧から、また、アジアから、<アメリカ>が目指され、そして、その多くが失踪していく。



注:引用には池内紀訳『失踪者』(白水社、二〇〇六)を用いた。



◆維新派とは?
http://www.ishinha.com/ja/about/aboutishinha.html


UP:20110227 REV:0620, 20130511

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